1837年(天保8年) ○長岡藩 ×生田万
大塩平八郎が大坂で乱を起こした後、越後の桑名藩領でも同様の事件が起きた(桑名藩は伊勢国桑名にある藩だが、越後国にも領地があり柏崎陣屋が統治していた)。
乱を主導した人物の名から生田万の乱(いくたよろずのらん)、あるいは事件の起きた柏崎陣屋から、柏崎事件とも呼ばれる。
生田万(いくた よろず)という人物は高名な国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)の開いた塾で塾頭を務めた経験のある学者で、自身も柏崎に桜園塾(おうえんじゅく)を開いていた。
先述のように凶作が続いていたこの時期、農民は苦しい生活を余儀なくさせられており、年貢を納めるために陣屋で金を借りなければならないほど生活は切迫していた。その上、売り手であるはずの農民たちには米価を決める権利はなく、高騰する米価の売値に応じた借金が増えていくため、米価が下がることを願うようなありさまだった。
この悲惨な事態を鑑みた生田は、大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が乱を起こしたことに影響を受け、自らも仲間と共に乱を起こす決意をする。
しかし、大塩が農民への施しにかこつけて挙兵の話を広めたのに対し、生田は「生田の落とし文」と呼ばれる檄文を作っただけなので人を集めることができず、たった6人での決行になった。
1837年(天保8年)6月の決行当日、陣屋は火事で補修が行われていたため、警備は手薄だった。生田らは陣屋内で乱を起こし、一時周辺は騒然となったが、やがては鎮圧され、生田をはじめ参加者の多くは自刃して果てる。
この事件のほか、摂津での一揆(能勢騒動)でも大塩の名が使われ、江戸でも予告だけとはいえ同種の動きが見られるなど、大塩平八郎の乱の余波は少なからず幕府を脅かすことになった。