1860年(万延元年) ○水戸・薩摩の十八士 ×井伊直弼
安政年間に幕府を揺るがした内外二つの問題――病弱で子どもの望めない将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)の後継者問題と、アメリカとの日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)に続く日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結して開国をするか否かという問題。
これらをその豪腕で解決したのが、彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ)であった。
幕府の最高職である大老に就任した直弼は、二人の候補者のうち自分がもともと推していた徳川家茂(とくがわ いえもち)を将軍とし、また天皇の許可が得られていないために宙ぶらりんになっていた日米修好通商条約を強引に締結してしまった。
さらに将軍候補として徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を擁立していた一派に対して激しい弾圧を加え、排除してしまう(安政の大獄(あんせいのたいごく))。
この豪腕が様々な問題を解決したのも事実だが、一方で諸勢力の反感を買うことにもなる。
特に問題が複雑だったのが尊皇攘夷(そんのうじょうい=天皇を敬い、異国を排除する)思想発祥の地である水戸藩の場合だった。朝廷から幕府の経由なく直接「異国を排除するために働くように」という命令書が下り、しかもその命令書を返還するよう幕府に求められたのだ。
水戸藩内でもどう対応するかについては大いにもめ、結局幕命に従って朝廷に命令書を直接返納することを決めたが、それに反対する者は納得いかない。
彼らの怒りの矛先は幕府、引いてはその中心であった大老・井伊直弼に向かった。安政の大獄で多くの水戸藩士が処罰を受けたことへの恨みもあっただろう。
そして水戸脱藩藩士17名に薩摩脱藩藩士1名を加えた総勢18名が1860年(万延元年)2月2日、この時期にしては珍しい雪の日に江戸城桜田門外で直弼の一行を襲撃した。
直弼は彼らの倍以上の従者を従えていたが、いずれも傘を被り、視界は遮られていたので咄嵯に対応できなかったようだ。襲撃者の撃った銃が直弼に当たり、身動きが取れなくなったところを殺害されてしまったという。
幕府重臣を暗殺した彼らはあるいは襲撃の際に死に、あるいは行方をくらませ、あるいは捕らえられて処刑された。
しかし「大老が暗殺された」という事実は幕府の威信を大いに傷つけ、また幕末の動乱期に数々演じられた暗殺劇の最初の一つとしても歴史的に大きな意味を持つことになったのである。