桜田門は1860年(安政7年)に起きた、水戸藩浪士らによる大老・井伊直弼の暗殺事件、いわゆる「桜田門外の変」で有名な門です。
現在は警視庁の庁舎(豊後杵築藩松平家屋敷跡)のすぐそばにある門として知られています。そのため警視庁のことを隠語として「桜田門」と呼ぶことがあります。ドラマなどで見かけますね。
当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていました。
1636年(寛永13年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築しました。桜田門と呼ばれるようになったのはそれからです。名前の由来は、このあたりが「桜田郷」呼ばれていたことによるそうです。
旧江戸城 外桜田門
現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷(さくらだごう)と呼んでいたことに由来します。
外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造からなり、外桝形(そとますがた)という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六二四~四四)とされ、現存する門は寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。
万延元年(一八六〇)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。Sotosakurada-mon Gate of Edo Castle
Currently called Sakurada-mon, this gate is officially named Sotosakurada-mon, soto meaning "outer" as opposed to the "Uchisakurada-mon" or "inner" Gate (Kikyo Gate) near the citadel. These gates were named Sakurada-mon because the area was called Sakurada-go (town) in the past.
The Sotosakurada-mon Gate has a dual structure consisting of the Korai Gate on the outside and the Watariyagura Gate on the inside with a square in-between. It covers an exceptionally large area (approx. 1,056 m2) as a highly defensive castle gate for the Nishinomaru (west compound). The Sotosakurada-mon Gate was originally built inthe Kanei era (1624 to 1644), while the existing gate is based on a gate reconstructed in 1663. The gate was damaged by the Grat Kanto Eartquake in 1923 and repaired it.
On March 3, 1860, the Japanese Chief Minister Tairo Ii Naosuke was assassinated by a group of samurai who seceded the Mito-han feudal state outside of the Sotosakurada-mon Gate in an event known as the Sakuradamon Incident.
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっており、間に桝形があります。
高麗門の内側です。
大手門と比べてもかなり広めの枡形(15間×21間)で、現存城門の中でも最大規模となっています。
渡櫓門です。
城内から見た渡櫓門です。
この渡櫓門の櫓は1923年(大正12年)の関東大震災で一部が破損したのち、鋼鉄土蔵造りに改修されました。
高麗門と渡櫓門の門全体が1961年(昭和36年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定されています。
なお江戸城には「内桜田門」と「外桜田門」のふたつが存在しますが、前者は「桔梗門」とも呼ばれており、単に「桜田門」という場合にはこの門を指します。