地下鉄の竹橋駅から出てすぐのところにはかつて内曲輪15門のひとつである、竹橋御門(竹橋見附門)が置かれており、その郭門橋として「竹橋」がありました。
竹橋門の枡形は1620年(元和6年)に、東北の諸大名によって造られ、内郭の城門として備えにあたりました。
なお、この門と橋に「竹橋」と名づけられた由来には諸説あるそうです。
- 竹を編んだ簡単な橋が架かっていたことから竹橋
- 後北条時代に佐竹氏がこの近くに住んでいたから竹橋
- 梅竹の意として、辰ノ口に対する虎ノ門、梅林坂に対する竹橋
ただしいずれも定かではないようです。
枡形門の跡地には石碑が建てられています。
すぐ横に石垣が見えますが、櫓台もしくは橋台だったのでしょうね。
1769年(明和5年)に落雷によって火災を起こした記録が残っています。
徳川家康の孫であり、豊臣秀頼や本多忠刻の正室であった千姫は、本多忠刻と死別したのちに出家して天樹院と号して、この付近にあった竹橋御殿で娘の勝姫とともに暮らしました。
1628年(寛永5年)に、勝姫が鳥取の池田光政に嫁いだ後もひとりで暮らしたそうです。
竹橋御門
竹橋御門は、旧江戸城内曲輪15門の一つで天正18年、徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説あり、竹橋の架設時期と併せ、いずれも定かではない。
御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3年再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。沿道の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は、都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進気運を高め、親しまれている。
現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設され、平成5年3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにした。
現在の橋は1926年(大正15年)に架設された長さ51.05m、幅22.8mのコンクリ-ト橋アーチ橋で、1993年(平成5年)3月に補修されました。
また1878年(明治11年)8月には、西南戦争の論功行賞と減給に不満を抱いた近衛兵260余名による反乱「竹橋騒動」が起きた場所としても知られています。