現在残る江戸城の天守台は高さ11m、東西約41m、南北約45mの大きさを誇り、御影石(花崗岩)でできています。
この天守台は「明暦の大火(1657年)」によって寛永度天守が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。
つまり1606年(慶長11年)に黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台ということになります。
元の寛永度天守台は13mほどあったので、再建時に高さは少し低くなっています。
また使用する石も伊豆石から御影石に変えて、より精緻な切石で積まれました。
(もとの伊豆石の石材のうち、再利用できるものは中雀門前の石垣に転用されたそうです)
なお、天守台の手前にある小天守台に使われている黒っぽい石材は伊豆石ですが、これは寛永度天守台の石材が転用されているそうです。
しかし天守そのものの再建は当時の将軍・徳川家綱の後見役で、徳川家光の異母弟である会津藩主・保科正之が
「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(『寛政重修諸家譜』)
と、被災した人たちの救済と江戸の街の復興が先であろうと主張したため、天守再建はとりやめられました。
正之の判断の中には、もはや天守によって幕府が天下を威嚇する時代ではないとの考えがあったともいわれています。
これ以降は本丸の富士見櫓を実質の天守としました。
また、それにならって諸藩でも(再建も含め)天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになりました。
また、天守台石垣の東南側には焼けたあとが残っていますが、これは1863年(文久3年)の大火によるものです。
この火災では焼失した本丸御殿は再建されず、機能を西の丸御殿に移しています。
現在、天守台はスロープで上がれるようになっており、展望台になっています。
天守台
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火(振り袖火事)で、飛び火により全焼し、以降は再建されませんでした。Tenshudai Donjon Base
The first Tenshukaku donjon of Edo Castle was constructed in the time of the 2nd Tokugawa Shogun Hidetada in 1607, and it was completed under the 3rd shogun Iemitsu in 1638, following the course of large-scale repairs carried out in 1622. Standing 58ms tall above the ground, five storied building outside, six storied within, it was the highest donjon ever built in japan and symbolized the suthority of the Tokugawa Shogunate. It was burnt down in the conflagration of 1657, only 19 years after completion, and it has never since been reconstructed.
展望台はこんな感じです。