1862年(文久2年) ○尊皇攘夷志士 ×安藤信正
開国問題をめぐって低下する幕府の威信を回復するために老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)がとった秘策、それが公武合体(こうぶがったい)――朝廷(公)と幕府(武)が歩みをそろえるということだった。
当時、尊皇攘夷思想が大きなうねりとなりつつあったこと、また幕府が開国問題にあたって朝廷の意見と許可を求めたことによって朝廷の権威が大いに上昇しており、それを利用して幕府の力を増そうという狙いがあったのだ。
そして、公武合体の象徴として計画されたのが将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)と孝明天皇(こうめいてんのう)の妹・和宮内親王(かずのみや ないしんのう)の結婚であった。
和宮にはすでに婚約者がいたが、それを解消させてまでの政略結婚に本人は当初難色を示したというが、押し切られる形で将軍への降嫁(こうか)が決まった。
ところが、この計画が進むにつれて別の問題が出てくる。「幕府は和宮を人質に開国についての勅許を要求し、それがダメなら廃帝を画策しているのではないか」という噂が流れたのだ。
そして1862年(文久2年)1月、水戸藩士4名を含む6人の尊皇攘夷志士が坂下門外で信正を襲撃する。
桜田門外の変の後だったこともあり、多くの護衛をつけていた信正はこの襲撃を切り抜け、傷を負ったものの命を拾うことができた。襲撃者たちはその場で討ち取られている。
ところが、武士でありながら背中に傷を負ったこと、また素足で江戸城へ逃げ込んだことなどが問題視され、信正は失脚してしまったのである。
これによって幕府主導の公武合体運動は頓挫せざるを得なかった。
しかし、この後も薩摩藩をはじめとする雄藩主導によって幕府と朝廷の接近は進められ、また政略結婚であった家茂と和宮の関係は良好であり、後に家茂が病没した後も彼女は幕府に残り、徳川氏存続のために奔走することになるのだった。