2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧
昼ドラに出てきそうなドロドロとした愛憎模様なのですが、権力と男女の仲がからみあうと悲劇しか生まないですね。
日本史上における最大級のクーデターがこの道教による皇位簒奪事件でしょう。 和気清麻呂らによって防がれたものの、清麻呂は穢麻呂と名前を変えさせられるなどの仕打ちを受けました。
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孝謙上皇の寵愛を受けていた藤原仲麻呂でしたが、その座を道教に奪われるとやがて対立し、武装蜂起にいたります。しかし上皇方に敗れ、道鏡の権勢は不可侵なものとなります。
非常に優秀だったこともあり、光明皇太后と孝謙天皇の時代に絶大な権力を誇ったのが藤原仲麻呂です。この状況に反乱を起こしたのが橘諸兄の子・橘奈良麻呂となります。
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物事には原因と結果があるわけですが、東大寺の大仏がつくられた背景も、もとを辿れば藤原広嗣の乱の影響かもしれません。
異例の出世をとげた左大臣・長屋王は藤原武智麻呂ら四兄弟の画策により自害に追い込まれました。長屋王夫妻の墓は平群町にあります。
クーデターにより支配体制が一新されると今度は勝者側での争いが起こり、劣勢な側が旧勢力と結びつくというのはある種のパターンですね。 中大兄皇子=天智天皇、大海人皇子=天武天皇、と即位前後の名前がなかなか一致しないのでこの機会にしっかり記憶して…
昔の教科書では「大化の改新」として習った方も多いと思いますが、この改革の端緒となった蘇我氏打倒のクーデターを「乙巳の変」と呼んでいます。
江戸時代に異例の抜擢をされた人たちを見てきましたが、決め手となったのはやはり将軍との関係性です。 異例の取り立てだったからこそ、前任者や後任者のやっかみを買うのは当然のことだったのかもしれません。
田沼意次の息子・意知の暗殺について、何らかの陰謀があった可能性があるそうです。息子を亡くし、さらに後ろ盾であった将軍・家治も病没したため、意次は失脚することになります。
YouTubeに動画を連続してアップしていく(番組化する)場合は毎回決まったイントロとアウトロの映像を用意するといいと思います。
江戸時代を通じても田沼意次の存在は別格です。彼は革新的な経済感覚を持った人物で、有力大名たちと姻戚関係を結ぶなどして権力を保ちましたが、非常に人当たりのいい好人物という評価もあります。
徳川吉宗が側用人を廃止して設置したのが御側御用取次です。加納久通と有馬氏倫のふたりが有名ですが、大出世とまではいきませんでした。側近を利用はするが権力を高めすぎない、吉宗のバランス感覚が見て取れます。
「正徳の治」を主導した間部詮房と新井白石ですが、家宣のあとを継いだ家継がわずか8歳で亡くなり、将軍が交代すると幕政から遠ざけられます。このとき新将軍に就任したのが紀伊藩主・徳川吉宗でした。
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甲乙つけがたいソフトが複数あるので、どの動画編集ソフトを使うかというのはなかなか悩ましいのですが、ぶっちゃけどれでもいいそうです。攻城団TVでは今後、ブラックマジックデザイン社の「DaVinci Resolve」を使っていこうと思ってます。
間部詮房とともに将軍・家宣を支えたのが新井白石です。白石は同時に儒学者として、家宣の師でもありました。
6代将軍・徳川家宣の時代も甲府藩主時代の家臣たちが幕府の直臣として取り立てられました。 なかでも高崎藩5万石の大名にまで出世した間部詮房は有名ですね。
側近、それも右腕と目されるほどに寵愛されると周囲のやっかみも生まれるというもの。新井白石らによる柳沢吉保への誹謗中傷はあまりにもひどいものでした。
5代将軍・徳川綱吉の側近というと牧野成貞、柳沢吉保らの名前が浮かびますが、吉保よりも格上の側用人がふたりいたことをご存知ですか?
江戸時代は良くも悪くも安定した官僚組織であったため、陪臣からの立身出世はむずかしかったのですが、仕えていた藩主が将軍家の後継ぎとなった場合にかぎりスライドしてして幕府の直臣となるルートがありました。
付家老という微妙な立場について、当初はその役割や意義が理解されていたのでしょうが、平和な時代がつづくと不公平感が強まって独立運動に発展してしまいました。これは現代における人事の難しさとも言えます。
付家老ではないものの対馬藩宗家の家老・柳川調興が独立を画策して起こした「柳川一件」は大名と家老――とくに江戸育ちの藩主と国を預かる家老――の関係性を象徴する事件かもしれません。
御三家ではないが、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家という親藩大名の付家老たちの紹介です。松平忠直、松平忠輝がともに幕府から重い処罰が下された背景には付家老も関わっていた可能性があります。
安藤家とともに紀伊藩の付家老をつとめた水野家では幕末期の水野忠央がとくに有名です。彼は大名として独立するためにあの手この手の画策をおこないました。
紀伊藩の付家老をつとめたのは安藤家と水野家です。なかでも初代付家老である安藤直次は大坂の陣での徴兵において空手形を発行し、のちのトラブルになったようです。
今回は尾張藩と水戸藩の付家老たちについてまとめました。付家老となった経緯も立場も異なる彼らですが、代替わりが進むとともに独立志向が強まっていくのは共通しているようです。
大名として独立したい付家老と、独立させたくない御三家。付家老を取り込みたいものの、御三家を監視するために独立は許さない幕府。この三者の微妙なバランスは幕末までつづきました。