綱吉政治の払拭
綱吉が亡くなると、実子のいない彼の後継者として6代将軍になったのが徳川家宣(とくがわ いえのぶ)である。
綱吉の兄・綱重の子であり、兄を差し置いて将軍になった負い目から綱吉は彼を厚遇したとされ、この将軍就任もその流れであると考えていいだろう。
このような恩があるにもかかわらず(むしろ、だからこそ?)、家宣が将軍として真っ先に取り掛かったのは、綱吉政治の否定であった。
その筆頭は綱吉という将軍の代名詞的存在である「生類憐みの令」――犬猫をはじめとしてハエにいたるまでの生き物を殺傷・虐待することを禁じた法令群(必ずしも生類憐みの令というひとつの法令が存在したわけではなかった)の廃止であり、これによって処罰された人々の赦免であった。さらに田畑を荒らす猪や鹿などを撃ち殺すことを許し、農民たちに大いに安心を与えた。
また、前代のときに横行していた賄賂を一切禁止し、婚姻などの祝儀に際する贈り物以外は行ってはいけないとした。このような家宣の新しい政治の形は、善政として武家にも庶民にも大いに歓迎されることとなったのである。
こうした家宣時代の象徴として、綱吉時代に大きな存在感を放った吉保が幕政から離され、代わって家宣の以前からの家臣たちが大きな役割を果たすようになった。
家宣は将軍の後継者として江戸城の二の丸に移るまでは甲斐国甲府藩主として江戸の桜田御殿にいたのだが、この時の家臣たちが家宣に付き従って江戸城に入り、直臣となったのである。綱吉が神田御殿から江戸城に入ったときとまったく同じ図式であるが、このときには綱吉のときのようなワンクッションはおかず、そのまま御目見以上だけでも数十人の甲府藩士が直臣になったようだ。
その中でも特に代表的な存在が、側用人として活躍した間部詮房(まなべ あきふさ)と新井白石(あらい はくせき)の両名である。このふたりは、家宣が将軍就任から3年で若くして亡くなった後も、7代将軍である家継を補佐する形で幕政の中心にいつづけた。
彼らが政治を行った時期を称して「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ぶ。
間部詮房という人
側用人・間部詮房は、かなり複雑な経緯をたどって家宣の側近となった人である。
もともと彼の血筋は藤原家の流れで、やがて徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)に仕え、詮房の父・清貞の代には家宣の父である綱重の家臣になっている。そして、この家系はここまでに何度も苗字を変えている。
しかも、清貞は猿楽師(ここでは能役者のことを示すと思われる)だったのである。もちろん、その子の詮房も幼い頃から猿楽師としての訓練をつんだ。やがてその容貌を評価されて家宣の小姓になり(ということは、両者に衆道的関係があった可能性もある)、また彼の命で「間部」を名乗るようになった。
家宣の寵愛を受けた詮房は次々と出世、将軍継嗣となった彼に従って直臣になり、側用人となって、家宣が将軍になると老中次席にまで上り詰める。所領も拡大し、最終的には上野国高崎藩5万石にまでなった。
たとえば、家宣の将軍宣下の際、「服忌令(ぶっきりょう)」というものによって1年以内の将軍宣下は行えないとされていたものを、近衛基熙(このえ もとひろ)と相談して「家宣は綱吉の実子ではなく養子だから」ということで3カ月後には将軍宣下を執り行ったのは詮房であった。
詮房は将軍の意思を伝える側用人として老中たちによる会議に参加し、その結果をまた将軍に持ち帰るのが役目であった。柳沢吉保のケースとほぼ同じである。このような構造を用いて、家宣もまた将軍親政の政治を実現したのである。
これだけ大きな存在感を有しただけに、詮房もまた周囲からのやっかみの対象とならざるをえなかった。
特に彼は幼少期に猿楽師、すなわち芸人であったわけで、風当たりはかなり強かったようだ。そもそも直臣たち(それも、幕閣の要職に就くような名門の譜代大名や旗本たち)は、同じ武士の陪臣に対してさえ優越意識を持っていただろうから、陪臣出身でかつ元猿楽師の詮房には相当な敵視・蔑視をしたであろうことは想像に難くない。大名によっては、そもそも「同席したくない」と言い出した者さえいるのだ。
それでも、詮房は無私公平の人であり、年に数回しか自宅に戻らないような猛烈な働き方をしたとされる。
その働きぶりも非常にまじめで人の話もきちんと聞き、綱吉時代以来のさまざまな問題を、後述する新井白石とのコンビネーションで切り抜けていったのだ。