陪臣から直臣ヘ
前章で紹介したように、大名や旗本の家臣である陪臣は、将軍直属の家臣である直臣に比べて家格で劣り、また幕政にも基本的に関与できない。
そして、陪臣の家系はよほどのことがない限り陪臣のままだ――これが動乱の時代ならば実力に応じて取り立てられたり転籍したりといったことも頻繁にあったかもしれないが、泰平の江戸時代ではそれを望むのも難しい。
江戸時代は巨大な官僚組織である幕府によって運営された時代であり、官僚制度というのは前例から外れるもの、特殊ケースというものを嫌うのだ、というのは現代に生きる私たちなら誰もが知っていることであるはずだ。
それでも、例外はある。江戸時代も中期以降になると、陪臣が直臣になり、大名になり、ついには老中にまでなって幕政に大きく関与する、というケースがいくつか見られるようになる。
これは将軍の息子がそのまま将軍になるのではなく、すでに他藩の藩主となっていた大名が将軍に就任するケースの際、自分の家臣団の一部を引き連れて江戸城に入り、彼らを直臣として取り立てる、ということがしばしば見られるからである。
こうしたケースは江戸時代における数少ない陪臣からの出世ルートであったといえよう。
現代でいえば「地方支社から中央の本社に栄転して、ついには専務にまで成り上がるようなもの」である。支社と本社ではまったく扱いが違うのだから、これは大変な栄誉だったろうが、それだけに苦労することも多かったに違いない。
初期政治をめぐる事情 徳川綱吉の時代
5代将軍・徳川綱吉は3代目の徳川家光の四男にあたり、もともとは上野国館林藩主だった。
とはいっても館林に赴いたことはほとんどなく(史料上確認できるのは一回だけだという)、江戸の神田御殿に居住し、そこで藩政を執っていた。
ここには約500人の家臣団(士分、ただし与力や同心は含まない)がいたとされる。
うち6割ほどはもともと直臣だったりその子弟だったりで、前章で紹介した付家老とその一族たちに立場が近い、といえる。
残りの約4割は別の大名家に仕えていた過去があったり、綱吉の縁故関係だったり、そして土豪や浪人の出身であったりした。
1680年(延宝8年)、綱吉の兄である4代将軍・家綱が倒れた。彼には嗣子がいなかったため、死の床において弟である綱吉を後継者とした。
これに従う形で、約500人の神田御殿の館林藩士たちも江戸城に入った――わけだが、だからといって彼らがそのまま幕政に関与したわけではない。そもそも、直臣になったのは数十人程度に過ぎず、多くのものたちが「館林藩士」という身分はそのままであったらしい。
神田御殿の家老であった牧野成貞(まきの なりさだ)が側衆(将軍に近侍し、交替で宿直して城中の諸務を処理する役職)、また小姓組の番頭として綱吉お気に入りの存在だった柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)が小納戸(将軍の身辺雑務を担当する役職)に、というのがそうした直臣として取り立てられた数少ない者たちの代表である。
そんな彼らでさえも、幕政を大きく左右するような立場ではなかった。
綱吉初期の幕政で大きな役割を果たしたのは、彼の将軍就任を後押しし、大老に任ぜられた堀田正俊(ほった まさとし)であった。
この時期を「天和の治(てんなのち)」と呼び、厳罰による綱紀粛正(実際、綱吉の治世下は大名改易が非常に多い)や農政の整備が強力に進められた。
このあたりは、いくら支社長が大抜櫂されて本社に乗り込んできても、既得権益を抱えた本社重役たちを無視して好き勝手に人事をいじれるわけではない、とたとえればわかりやすいだろうか。側近をひとり幹部会議に送り込む、秘書室に支社から連れてきた側近を送り込むくらいのことが精一杯で、自紙状態から好き放題するようなわけにはいかなかったのである。
この状況が1684年(貞享元年)に起きたある事件で激変する。なんと、正俊が江戸城内で殺害されてしまったのである。犯人は同じく幕府要職である若年寄であった稲葉正休(いなば まさやす)。なんと、正俊の従兄弟にあたる。
なぜ彼がこのような暴挙に及んだかはわからない。その場に居合わせた者たちが正休を取り囲んで殺害してしまったからだ。「綱吉の命を受け、権勢を誇って無礼の振る舞いが目立つ正俊を穏便に辞職させようとして拒否されたからだ」「綱吉の命令ではあるが、それは能に熱中する綱吉を正俊が諫めたからだ」、あるいは「真田家などと手を結んで謀反をたくらんでいたのだ」とも「淀川の治水をめぐって意見が対立したのだ」「失敗の揉み消しを正俊に頼んで断られたからだ」ともいうが、今となっては誰にも調べようのないことである。
ただ間違いないのは、この事件を受けて幕閣の性質が大きく変化したこと――それも、綱吉自身の権力が強化され、将軍による独裁に近い形になったことである。牧野成貞が新設されたポストである側用人(そばようにん)となり、同じく神田以来の家臣である金田正勝が御側に置かれた。
さらに、それまではあくまで館林藩士であった者たちもそのほとんどが直臣となって、実務面で綱吉の政治を支えていくことになるのだ。
加々爪家の改易
「天和の治」時代にあったとある事件が、本連載のテーマから見て大変興味深いものがあるので、ここでちょっと脱線して紹介したい。それは遠江国掛塚藩(かけづかはん)・加々爪(かがつめ)家の改易にまつわる事件である。
加々爪家は東国の名門・上杉家のひとりが今川家の養子となったことが始まりである。
その後、今川の衰退にともなって徳川家臣となり、家光側近として活躍した加々爪直澄(かがつめ なおずみ)の代に大名となっている。
事件が起きたのは1681年(天和元年)、直澄の養子・直清(なおきよ)の代である。
加々爪家の領地と、旗本・成瀬正章(なるせ まさあきら)の領地の境界線があいまいだったことから争いとなり、お互いにまったく退かなかったので、その解決が幕府に持ち込まれた。その結果、掛塚藩は改易ということになってしまう。直澄の弟の家が旗本として残ったことだけが不幸中の幸いであろうか。
さて、幕府はなぜ加々爪家にこのような厳罰を下したのだろうか。よほど明確に成瀬側の主張が正しかったのかと思えばさにあらず、決め手は「書類ミス」であった。
加々爪側が提出した書類に以前提出したものとの矛盾があり、これが問題視されてしまったのである。直澄が一度は幕閣の重要役職を務めたほどの人物でありながら、このような問題を放置したのも幕府側の心証を悪くしたようだ。
それまでなら、問題視されても改易されるほどのことではなかった。
しかし、綱吉の治世下においてはこのような藩政の乱れのようなものも十分改易の理由として扱われた。その背景には、将軍による専制体制を整えようとする綱吉の強い姿勢が透けて見える。
その時その時の社会事情や、上部組織の方針、上位者の意向によって組織の運命というものはしばしば余りにも簡単に左右されてしまう。これは現代の企業でも、江戸時代の藩でも、そうは変わらないのである。