柳沢吉保という男
柳沢家はもともと武田信玄で有名な甲斐武田家の支流であり、武田滅亡後は多くの武田旧臣がそうであったように徳川家に仕えた。
柳沢安忠の代には直臣から駿府の徳川忠長に仕えたものの、前述したようにこの家は改易となってしまったため、浪人生活を経て館林藩時代の綱吉の家臣となった。そして、その息子が綱吉の小姓となる――これが吉保(このころの名は保明)である。
やがて吉保は加増により武蔵国川越藩の藩主となる。さらに老中上席――すなわち老中より上の格、大老格となり、「松平」の姓と「吉」の字を受け、「松平吉保」と名乗るようになった。
これは徳川一族にも匹敵するような「特別扱い」だ。また、綱吉は58回にわたって柳沢邸を訪れており、一度などそこで公事を行ったほどである。
綱吉による吉保への寵愛はこれにとどまらず、綱吉が甥の家宣を後継者に定めた際、その功労によって家宣の旧領を与えられた。
こうして、それまで徳川家のみが所領を許されていた甲斐国甲府藩の藩主になるという「特別扱い」を受けるにいたったのである。しかも、これは吉保の先祖が住んできた土地である。彼の喜びは一様のことではなく、「めぐみある/君につかへし/甲斐ありて/雪のふる道/今ぞ踏みみん」と歌を詠んだ、と伝わる。
吉保のおさめる甲府城下はとても賑わい、ここを訪れた儒学者の荻生徂徠(おぎゅう そらい)は「まるで江戸のようだった」と語っている。
吉保は本当に絶大な権力者だったのか?
それでは、吉保はこの時期の幕政においてどのような存在だったのだろうか。
たとえば、新井白石などは「天下のすべてのことは彼の思うままになってしまい、老中は彼の言うことを外に伝えるだけになってしまった」と強く批判している。側用人として綱吉の意思を外に伝える吉保が、自らの思うように将軍の言葉を曲げている、という指摘であろう。
しかし、この指摘は実際には的外れのものであったようだ。吉保が幕政に自分の意見を投影させるようなことはほとんどなく、将軍独裁体制を作ろうとする綱吉の側近として、彼の意思を外へ伝えることこそが彼の役目だった。白石のように吉保を非難する後世の人々は、「綱吉の政治」を直接非難することができない(なにせ、相手は将軍だ!)ため、吉保を「君側の奸」に見立てて非難した、という意見を取るのが妥当ではないだろうか。
ただ、吉保に対しては諸大名が積極的に交流を求め、取り入るために進物を贈る大名が引きもきらなかったのもまた事実である。吉保が裏門に番人を置き、制止させなければならなかったほどである。
このように諸大名が吉保に擦り寄ったのには、前述のように綱吉が自らの一存において厳しい大名統制策を進めたため、家格上昇や再興などを目論むものたちが、どうにか綱吉側近である吉保の力で目的を達成するためであった、と考えられる。
実際の人物像としては、「行跡正シク 慈悲専ラトシテ 民ニ愛惜アリ」「忠勤第一トシテ」「心意順路ニシテ 邪佞之心ナク 誉之将卜云ヘリ」(すべて『土芥寇讎記』)という評価がなされており、悪人ではなく、あくまで綱吉に忠実な人物であった、と考えられる。
1709年(宝永6年)、綱吉がこの世を去ると、吉保は息子の吉里(よしさと)に家督を譲って隠居した。吉里の時代に甲府は江戸時代最多の武家人口を誇ったが、その後、吉里が大和国に転封となったため、甲府藩柳沢家は吉保の代のみで終わったことになる。
ちなみに、この吉里も綱吉から「吉」の一字を与えられるなど寵愛され、「吉里を娘の婿に取らなかったのはまったく間違いで、一族と思っている」とまでいわれたとされる。
幻の柳沢騒動
このような吉保・吉里親子に対する綱吉の寵愛およびそれに対する非難の声は、ついに幻の事件を作り上げるにいたった。それが「柳沢騒動」である
これは「柳沢吉保が時の将軍・徳川綱吉に取り入って実権を独占し、また諸大名とも結びついて大きな力を得るに至った。さらに自らの子である吉里を綱吉の子であると偽って、本来の後継者である綱豊(後の家宣)を呪い殺そうとする有様。これに対し、綱吉の正室は綱吉を殺し、自らも死ぬことで吉保の陰謀を防いだ」――という物語で、江戸時代には「実録物」、すなわち「誇張はありながらも基本的には事実であるもの」として巷間に広まっていた。
しかし、ここまで紹介したように、これはかなりの部分で虚構の物語と考えられている。
吉保はそのような悪人ではなかったし、このような暗殺の企ても、とても本当にあったとは思えない。実際、江戸時代からすでに真偽を問う声があがっており、明治時代には虚構であることが明確に示されたものの、前述したような事情もあって、吉保=君側の奸というイメージはなかなか晴らされなかったのである。
だがこれは逆にいうと、それほどまでに「将軍の側近」としての吉保の存在感が強かったことでもあり、ある意味で有名税的なものでもあったかもしれない。
歴史に名を残すというのはなんとも恐ろしいものだが、実際これほどのスケールではなくても、出世をすれば(それも、社長の引き立てのような形で)やっかみの声を一身に受けるというのはよくある話。注意したいものだ。