地域の成り立ち
旧恵那郡を二分したうち、西側に位置するのが恵那市(東側は中津川市)である。
大井町・長島町と東野村・三郷村・武並村・笠置村・中野方村・飯地村の2町6村が合併して旧恵那市になった。ここに近年になって岩村町・山岡町・明智町・上矢作の4町と串原村が合併して現在の形になった。観光地として有名な恵那峡がある。
先土器時代の石器が発見されるなど古くから人が住んでいたと思われる。
特に大井は、かつては美濃と信濃を結ぶ吉蘇路(後の木曽路)の、その後は東山道(鎌倉街道)の、さらに江戸時代には中山道の宿駅・宿場として大いに栄えた。
戦国時代の恵那市
現在の恵那市に属する地域には、言わずと知れた岩村遠山(とおやま)氏の本拠地である岩村の地があった。岩村遠山氏をはじめとする遠山一族は「遠山七頭(中でも有力なのが「三遠山」)」と呼ばれる諸家を中心に東美濃を支配した。
特に岩村遠山氏の遠山景前(かげさき)は、「三遠山」の一角を占める苗木遠山氏の血筋が途絶えるや自分の子の武景(たけかげ)を、次いで直廉(なおかど)を後継者として送り込み、自らの支配下に置いている。さらにもう1つの三遠山である明知遠山に対しても圧力をかけていた。
そこに甲斐の武田信玄による侵攻が始まり、遠山一族は武田の支配下に入った。
その証拠として、病死した景前から子の景任(かげとう)への継承は、武田軍が進駐しているもとで行われたとされている。
一方で織田氏も東美濃へ手を伸ばし、合戦や和平を繰り返しながら最終的に織田方が勝利する。この過程で岩村遠山氏は後継者を失い、滅んでしまう。その中で織田信長の叔母・おつやの方の悲劇があったのはすでに紹介した通りだ。
この地域の有力者として残った明知遠山氏も本能寺の変後に森氏によって東美濃を追い出されてしまった。
しかし明知遠山氏は関ヶ原の戦いの時に徳川家康の後ろ盾を得て帰還、戦いで活躍して旧領に復帰するに至った。
江戸時代の恵那市
江戸時代、この地域は岩村藩(大給松平(おぎゅうまつだいら)家→丹羽(にわ)家→大給松平家)をはじめ、苗木藩遠山家、交代寄合の明知遠山家、木曾衆、幕府直轄地などに分かれていたが、やがて尾張藩領が増えていった。
このうち、明知遠山家は明知城が一国一城令で廃城になったあとは陣屋を代わりに置いて統治拠点とした。
やがて領地には代官を置いて自らは江戸で暮らすようになり、この家系からは和歌の世界で名を残した遠山伊清(これきよ)や、ペリー来航時の浦賀奉行・遠山景高(かげたか)が出ている。
また、明知遠山家の家系からはさらなる有名人が出ている。
傍流の旗本・遠山家に現れた遠山金四郎景元(きんしろう かげもと)――すなわち天保年間に活躍した北町奉行(のちに大目付・南町奉行)である。いわゆる「遠山の金さん」物語のモデルになった人物だ。
恵那市の代表的な城
岩村城は岩村遠山氏の本拠地だった山城だ。
山城が日本中のあちこちにある中でも、特に高い位置にあるという。源頼朝の重臣で遠山氏の祖になった加藤景廉(かとう かげかど)が築いたとされる。
この城を守るための支城として「遠山十八支城」が築かれたというが、実際どの城がそれに当たるのかはっきりしない。一説では明知・苗木・明照・飯狭・串原・安木・今見・大井・瀬戸崎・鶴居・振田・中津川・幸田・大羅・千駄皈(せんだぎ)・高山・香野・馬籠の十八城という。
明知城の築城は伝承によると明知遠山氏の祖によるもので、鎌倉時代ということになっているが、砦としての城は室町時代以降と考えられている。
場所は中馬街道と南北街道の要所にあたり、そのせいかこの城の周辺では四度に渡って合戦が繰り広げられている(今川氏との戦い、武田勝頼(かつより)による東美濃攻め、小牧長久手の戦いで徳川方の攻撃目標になる、関ヶ原の戦い)。