武家の棟梁である「征夷大将軍」には源氏しかなれないと学校で習ったような記憶がありますが、じつは公家の頂点である「関白」も藤原氏しかなれません。
摂政・関白になれる家柄を「摂家(摂関家)」といい、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家と5つだけだったことから「五摂家」とも呼ばれてます。
ではなぜ百姓出身の秀吉が関白になれたのでしょう。
じつは秀吉は1585年(天正13年)に近衛前久の猶子(ゆうし)となって、強引に藤原氏に入れてもらって「近衛秀吉」として関白に就任しました。
ちょうど「第一次上田合戦」で真田が徳川とわちゃわちゃ戦ってた頃です。
補足すると、猶子というのは養子とほぼ同じなんですけど「家督や財産などの相続を必ずしも目的とせず、権勢を借りたり、同族内の結束を強化するため」におこなわれるものです。まさに秀吉は「藤原朝臣姓」がほしかっただけなので、このケースは典型的な猶子ですね。
ちなみに近衛前久の年齢は秀吉のひとつ上なので、51歳のおじさんが50歳のおじさんを猶子にしてます。さらに余談ですけど前久は本願寺教如や津軽為信も猶子にしています。
その後、秀吉は「豊臣」に改姓し、豊臣氏をあらたたな摂関家としています。
秀吉の養子なり関白を継いだ秀次は「豊臣朝臣秀次」として関白に任じられています(ただし秀次以降は五摂家が摂関の座を独占するようになっています)。
氏と名字
「藤原氏」もそうですし、「源氏」や「平氏」もそうですけど、これらは「氏(うじ)」といって、名字とは異なります。
「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」とか「蘇我馬子(そがのうまこ)」とか、あるいは「平清盛(たいらのきよもり)」とか「源頼朝(みなもとのよりとも)」とか、氏の場合は帰属を表すために「の」を入れて読みます。
『真田丸』で秀吉が「とよとみのひでよしである」と名乗ってたのは「豊臣」も氏だからです。「羽柴秀吉(はしばひでよし)」であり、「豊臣秀吉(とよとみのひでよし)」でもあったわけですね。
こういう細かいとこも正しくやってる『真田丸』は時代考証の先生たちがすばらしい仕事をなさってますよね。
せっかくなのでぼくらは「お、なんでいま『とよとみの』っていったの?」という疑問からいろいろ学ぶとおもしろいと思います。
前置きが長くなりましたが、いよいよ本題です。
ぶっちゃけ関白と征夷大将軍ってどっちがえらいの?
これぼくも疑問に思って調べたんですけど、けっこうむずかしいです。
単純に答えてしまえば「関白」は朝廷の序列として最高位にあるので、関白のほうがえらいです。ただ当時の状況を考えるとそうともいいきれないんですよね。
「征夷大将軍」は文字通り、東夷(蝦夷)を征討する遠征軍の最高司令官のことで、ネットの記事には「関白が総理大臣で、征夷大将軍は防衛大臣」というたとえもありましたが、征夷大将軍が生まれた当時の理解としてはそれほどまちがってないと思います。
ただ征夷大将軍は「現地においては天皇の代理人たる権限」を持っていたので、朝廷内(京都)における天皇の代理人である関白と、権力的にかぶってたんですね。
この征夷大将軍の特権をうまく利用したのが源頼朝で、彼は朝廷内の序列では関白よりだいぶ下の「右近衛大将」だったんですが、奥州藤原氏を征伐するという名目で征夷大将軍の座につき、そのまま京都から離れた鎌倉の地に幕府を開き、独自の政権を成立させました。
ここから「朝廷(公家)」と「幕府(武家)」という二元体制がはじまったともいえますね。
それが室町時代も戦国時代もつづき、そして江戸時代を終わらせることにつながるわけです(「大政奉還」は簡単にいえば、江戸幕府を消滅させて、ふたたび朝廷に政治権力を一本化させたということです)。
歴史のおもしろいのはこういうところで、もともと幼少の天皇を補佐するために摂政という役職があり、天皇が成人後も藤原氏が権力を維持するために関白という役職が生まれました。
平清盛は朝廷という階級社会の中で出世して最終的には太政大臣にまでのぼりつめましたが、あくまでも傀儡政権にすぎなかったので、源頼朝は朝廷の支配の外で権力を持つために征夷大将軍の特権を拡大解釈して完全に独立した政権をつくったわけです。
さらにそれを足利尊氏や徳川家康が継承することで600年以上にわたって武家政権がつづいたんですね。
(まあ平氏政権も武家政権ではありますけどね)
つながってますよねえ。ぼくはこういう100年単位で影響が出るような歴史の連続性を知ったときがいちばんワクワクしますね。
まとめ
強引にまとめると、たとえば天皇=生徒会長とすると、関白は副会長で生徒会という序列のなかでは誰もが認めるナンバー2です。
いっぽう、征夷大将軍は体育祭の実行委員長にすぎません。でも体育祭の運営においては全権委任されているので副会長よりえらいと解釈することもできるってことです。
ちなみに冒頭で「征夷大将軍は源氏しかなれない」と書きましたが、あれは正確ではありません。それこそ平氏を自称していた織田信長も天皇から征夷大将軍に推任されていますからね。
おまけ:三英傑は朝廷の序列でどこまでのぼりつめたのか
信長、秀吉、家康――いわゆる「三英傑」がどの官位にまでのぼりつめたかを一覧にしてみました。朝廷の序列としては「太政大臣・関白」「左大臣」「右大臣」「内大臣」で、信長は右大臣が最高位でした。
ちなみに真田昌幸の官位は「従五位下、安房守」で、真田信繁は「従五位下、左衛門佐」です。
心眼寺にある信繁のお墓には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」とあります。信繁は秀吉から豊臣姓を下賜されてますからね。