二条城で起きたイベントとしてもっとも有名なのは大政奉還だと思いますが、多くの人が誤解していることがあります。
以下の絵は教科書にもよく出てくる「大政奉還図」(邨田丹陵筆)ですが、これは慶喜が在京諸藩の重臣を前に「(徳川幕府を終わらせて)大政奉還するから」と伝えているシーンですが、どこがまちがっているかわかりますか?
舞台は大広間ではなく黒書院?
二条城を訪問したことがある方であれば、この部屋が「大広間」ではなく「黒書院」だと気づくのではないでしょうか。
大広間には狩野探幽が描いた巨大な松の絵が床の間だけでなく両脇にも描かれていますが、この絵には桜が描いてあります。これは探幽の弟、狩野尚信が描いた「桜花雉子図」です。違い棚が直角に備え付けられていることや、一の間と二の間の幅がズレていることなども黒書院だと特定できるポイントです。
上の図面のとおり、黒書院は対面で使用する一の間と二の間をあわせても56畳で大広間の92畳と比べるとひとまわり小さいので、これだけの人数を収容することはむずかしいと思います。また親しい人との対面所として使われていたので、奥行きもこんなにありません。
では部屋を描きまちがえただけかというと、そういうことでもないのです。
大広間で諸侯に伝えたのは慶喜ではなく、老中・板倉勝静(かつきよ)
大政奉還がおこなわれた一連の流れを時系列に沿って整理するとこうなります。
(この詳細年表は「二条城の歴史」のページにあります)
1867年(慶応3年)
- 10月11日、幕府、大政奉還に先立ち、諸藩に13日の登城を命じる。
- 10月12日、慶喜、松平容保、松平定敬ら在京有司を二条城に召見し、大政奉還の意思を伝える。
- 10月13日、二条城大広間に在京十万石以上の諸藩重臣を召集し、老中より大政奉還決意書を示して諮問し、かつその藩主の上京を命じる。鹿児島藩士・小松帯刀、高知藩士・後藤象二郎、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵、とくに慶喜に拝謁して、ただちに奏請せんことを勧説する。
- 10月14日、大政奉還上表(15日、勅許)。
- 10月16日、幕府、在京十万石以上の諸藩重臣、旗本を二条城に召し、大政奉還勅許を示達する。
- 10月17日、幕府、在京十万石以下の諸藩重臣を二条城に召し、各藩主の早々の上京を命じる。
つまり事実としては
- 12日に「黒書院」で慶喜が松平容保、松平定敬らに大政奉還の意思を伝える
- 13日に老中・板倉勝静が「大広間」で在京諸藩重臣に伝える。ただしその際に「意見のある者だけ残れ」として小松帯刀や後藤象二郎ら6名が残り、慶喜に拝謁(おそらく慶喜がこのとき大広間に出てきたと思われる)
- 14日に奏上して、15日に勅許
ということです。
仏教大学の青山忠正先生が越後新発田藩の家臣の家に伝わる「寺田家文書」をもとに裏とりをされてますね。青山先生は「大政奉還図」は12日の様子(身内に伝えたシーン)を描いているとおっしゃってますが、12日に集まった人数はこんなに多かったのかはわかりません。
ちなみに五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)が描いた「明治天皇御紀附図稿本」には大広間で慶喜が小松帯刀ら4人と話しているシーンが描いてあり、宮内庁宮内公文書館で公開されています。
この絵の元になったのが「意見のある者だけ残れ」で残った6名と慶喜との会話のシーンだと思われます。ここで小松帯刀らが「早く返上しましょう」と進言しています。
明治天皇御紀附図稿本 巻1 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
つまり冒頭の問題の答えは以下となります。
- 舞台が大広間ではなく黒書院になっている
- 慶喜自身が大勢の諸侯の前で大政奉還の意向を直接伝えたわけではない
部屋のちがいはさておき、教科書に載っていたあの絵のインパクトが強すぎて、すっかり慶喜が大広間に集められた在京諸藩の重臣たちに直接伝えたと思っていましたが、事実は少しちがっていたことがわかりました。
とはいえ二条城の大広間には人形があるよね……?
そうなんです。
事実は上記のとおりなんですけど、現在の二条城の二の丸御殿大広間にはいかにも大政奉還のシーンを思わせる人形が置かれているし、公式サイトにも
1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
と書いてあって、慶喜が大広間で諸侯に伝えたことになってます。
たしかに老中が伝えているシーンを再現してもいまいち画として弱いですし、かといって黒書院で「大政奉還図」を再現すると部屋が狭いので窮屈な感じになりますが、事実と異なるのであれば直したほうがいいですね。
もしかしたら二条城としては大広間で慶喜が直接諸侯に伝えたという説を採用しているのかもしれませんので、機会があったら聞いてみたいと思います。