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戦国時代のはじまりと終わり

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戦国時代とはいつからいつまでを指すのか。
とても素朴な疑問ではあるのですが、正確に答えるのが非常に難しい問いです。とりあえずうちにある本を何冊か広げながら、どういう説があるのか、どういう考え方で区切っているのかを調べてみました。


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最初に結論というか、現在の定説としては

  • はじまりは「明応の政変」
  • 終わりは「大坂の陣」

という感じのようです。

ただ「戦国時代は何年から何年までの間」と明確に期間を区切れるかというとむずかしく、じっさい教科書でははっきり書いていません。
「応仁の乱で将軍・幕府の権威が低下し、明応の政変で決定的となった」みたいな書き方が多いようです。
(そもそも応仁の乱といっても11年あるのではじまりを示す「点」ではない)

書籍ではどうなのか

うちには攻城団ライブラリとして1000冊以上のお城本・歴史本の蔵書があるのですが(ほとんど未読ですけど)、その中から戦国時代についての入門書をいくつか引っ張り出してみました。
個々の書籍でどのように記載されているかというと、

  • 大石先生監修の「一冊でわかる戦国時代」では「応仁の乱の前後」から「徳川家康が死去した1616年」まで
  • 二木(ふたき)先生監修の「戦国時代のすべてがわかる本」では「応仁の乱」から「大坂の陣=豊臣家滅亡」まで。より詳細には「東国では北条早雲による伊豆平定(堀越公方の滅亡)、西国では明応の政変(将軍排除)で戦国時代へ突入」とある
  • 小和田先生監修の「戦国史」では「応仁の乱」から「足利義昭の追放」まで。ただしこれは義昭追放後を「安土桃山時代」としているため。また「一般的には」とことわりがあり始期と終期に諸説あることを補足しつつ、巻末の年表では1438年(永享10年)の「永享の乱」から「島原天草一揆」までになっている
  • 「クロニック戦国全史」では「享徳の乱」から「大坂の陣」まで

といった感じで少し古い書籍も含まれているとはいえ「応仁の乱」説が濃厚でした。
「島原天草一揆」までを戦国時代とするのはおそらく幕末の動乱をのぞけば、これが最後の内乱だということなのでしょうね。

なんで曖昧なのか

ここで基本的なところから考えてみると、「戦国時代」という名称はほかの「鎌倉時代」や「江戸時代」といった名称とは異なる命名ルールに基づいていることが曖昧さの理由なのでしょう。
一般に「○○時代」という時代区分は、全国的な政権の成立とその中心となる場所から名付けられるわけで、ようするに「都(政庁)の地名」を冠にしています。

しかし戦国時代はそういう区分ではありません。
戦国時代は室町時代の後期と江戸時代の初期に重なっているわけで、これは昭和から平成にかけて表現される「バブル時代」に似ています。

また戦国時代を「室町時代のあと」とするか、「室町時代後期と並行」とするかというスタンスのちがいもあります。
ただしこれはこれでややこしくて、「室町時代のあと」にした場合、「室町時代はいつ終わったのか」を決めなければなりません。上述の「戦国史」では「足利義昭の追放」を終わりにしていますが、じっさいにはその時点では義昭は将軍職を辞職しておらず、鞆幕府も含めるべきという考え方もあるでしょう。
(義昭が将軍職を辞任したのは1588年(天正16年)のこと)

そもそも最近の定説では鎌倉時代は源頼朝の征夷大将軍就任の1192年(建久3年)ではなく、それより前の1185年(文治元年)からスタートしているので幕府成立と時代区分も一致しないのですが、この点も考慮しはじめるとさらにややこしくなりますね。

始まりと終わりはややこしい

そもそも権力の移り変わりは一日で完了するものではないことも大事なポイントです。
たとえば鎌倉時代の滅亡は1333年とされますが、これは5月7日に足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇側に味方して六波羅探題を攻め落とし、さらに5月21日頃に新田義貞が幕府の本拠である鎌倉を陥落させ、執権・北条高時らを自害させたからです。しかしこれは最後のひと突きであって、この一連の争いである「元弘の乱」は1331年(元徳3年)にはじまってますし、御家人たちの不満はもっと早い段階から大きくなっていました。

「終わりの始まり」といった表現を使うことがありますが、まさに「終わり」は(「はじまり」も)一定の期間(日数や年数)がかかるものなのです。
話を戻すと、室町幕府が不安定になり、江戸幕府が安定するまでの間を「戦国時代」と呼ぶことができるかなと。
では不安定とはどういう状態かというと

  • 一発逆転のチャンスがあるか
  • たんに主君を殺して成り上がる下剋上だけでなく、支配者に対して派閥や徒党を組むことでの勢力図の逆転が可能か

といった定義が考えられます(あくまでもこれはぼくの定義ですが)。

そう考えれば、室町幕府の権威が弱体化していく(=不安定化)のは

1429年(正長2年) 義教就任
→くじ引きで将軍が選ばれた
※当時は神頼みはいまよりもっと日常的で説得力があったとはいえ
1441年(嘉吉元年) 嘉吉の変
→将軍が暗殺
1467年(応仁元年)〜 応仁の乱
→畠山氏の家督相続に将軍後継者争いまで巻き込まれた
1493年(明応2年) 明応の政変
→家臣による将軍の強制交代

あたりの出来事が順番に起こっていく中で「終わって」いったのでしょう。

また同時期に関東でも幕府の権威低下につながる出来事がつづいていたこともポイントです。

1438年(永享10年) 永享の乱
→幕府と対立した鎌倉公方・足利持氏を将軍・義教と前関東管領・上杉憲実とともに討伐
1454年(享徳3年)〜 享徳の乱
→鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺。幕府は山内上杉家・扇谷上杉家側についたため、成氏は鎌倉を追われる
1493年(明応2年) 伊勢盛時(北条早雲)による伊豆討入り
→堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)茶々丸の討伐=明応の政変で新将軍の座についた義遐(よしとお、のちの義澄(よしずみ))が母と弟の敵討ちを命じたとも

こうした出来事が連鎖的・複合的に起こっていく中で、「室町幕府が全国を支配する」という構造が(建前はどうであれ)実質的に失われていき、室町幕府が有名無実化していく=戦国時代のはじまりと理解するのが妥当な気がします。

ただ「応仁の乱」が大きな契機となったことはまちがいないと思います。
というのも室町幕府では守護は京にいる決まりで――だから領国を統治するために守護代が派遣されるわけですが――応仁の乱を契機に京を離れる守護が増え、そして彼ら守護たちが大名化していく(あるいは守護代が下剋上して大名化する)わけです。

一方で、戦国時代の終わりとは、新しい天下の趨勢が盤石なものとして確立され、もうどうにもならない状況になることを意味しているので、

1598年(慶長3年) 秀吉死去
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い
1603年(慶長8年) 家康の征夷大将軍就任
1614年(慶長19年)〜1615年(慶長20年) 大坂の陣
1615年(元和元年) 武家諸法度の発布

という前後約17年の間にゆるやかに確立していったと考えるのが妥当かなと。

ただし戦国時代=群雄割拠とするなら、1591年(天正19年)の奥羽再仕置によって豊臣秀吉が全国統一を果たしたことがひとつの区切りになると思います。
(これにより秀吉による全国的な政権樹立が完遂したとみなせるため)

まとめ

「戦国時代はいつからいつまでか」という質問は簡単なようでいて、正確に答えようとするとなかなかむずかしいということがわかっていただけたかと思います。
そもそも鎌倉時代から室町時代の間に建武の新政があったり、初期の室町時代と並行して南北朝時代があったり、時代区分というのはほんとにややこしいなとまとめながら感じました。

ただここで書いたように「なにをもって終わりとするか」という定義の部分について、みんなで自説を述べ合うのは楽しそうだなと思いました。
いつかそんなディスカッションの機会をつくってみたいですね。

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