大河ドラマ「麒麟がくる」では三好家に暗殺された13代将軍・足利義輝の後継者として、足利義栄(よしひで)が14代征夷大将軍に就任しました。
しかし室町幕府の歴代将軍、とくにその後半にあたる戦国時代の将軍は有名すぎる戦国大名たちの影に隠れてしまってあまり知られてないですよね。義輝のほか、銀閣寺をつくり東山文化を築いた足利義政や、最後の将軍となった足利義昭の名前はパッと出てくるんですけど、それ以外の将軍の名前は教科書にもほとんど出てきません。
そこでざっくりではありますが、戦国時代の室町幕府で将軍職についた人たちについて紹介します。
(まあ前半も3代・足利義満のあとは知名度が低いのですが、こっちはまた別の機会にやります)
戦国時代の足利将軍のプロフィール
9代将軍・足利義尚(よしひさ)
足利義政の子で、「応仁の乱」は彼が生まれたから起きたともいえます。もともと義政には実子がいなかったため、弟の義視(よしみ)を養子に迎えて将軍職を譲る予定でしたが、正室・日野富子が義尚を生んだため、将軍後継問題が発生し、それが畠山氏の家督争いや、細川勝元と山名宗全の権力争いとあいまって起こったのが「応仁の乱」です。
ともあれ、義尚は9歳で9代将軍に就任します。幼かったこともあり父・義政と母・富子らが政務をおこなっていましたが、成長するにつれて義尚は自分で政務を主導したいと考えるようになり親子の対立が生じます。
義尚は自分の影響力を強めるために、幕府を軽視した近江守護・六角氏を討伐することを宣言すると、これに呼応した諸大名や奉公衆の軍勢約2万を率いて近江に出陣します。京都から滋賀なので遠征というほどの距離ではないのですが、六角氏討伐は成功します。そして義尚は両親と距離をおくため、京に戻ることなく近江の陣所で政務をとっていましたが、次第に酒色に溺れるようになってそのまま25歳の若さで近江で亡くなります。
将軍不在期間
「麒麟がくる」でも義輝が暗殺されたあと、義栄が将軍に就任するまで空白期間がありますが、将軍死去にともなう交代時は後継者選びのためにしばしば空白期間が生まれています。
義尚の病死が1489年(長享3年)3月26日、つづく10代将軍の将軍職就任が1490年(延徳2年)7月5日なので、1年あまり将軍不在だったことがわかります。
10代将軍・足利義稙(よしたね)
義尚が亡くなったものの前将軍・義政が存命だったため政治的な混乱はさほどなかったようですが、その義政が1490年(延徳2年)正月に亡くなったため、次の将軍を早急に決める必要性が生まれました。
実質的に最高権力者になっていた日野富子が次の将軍に選んだのが足利義稙でした。彼は義尚と将軍職を争った義視の子で、因縁のある人物ではありますが、母親が富子の妹でもっとも血縁的に近い人物でもありました。このときは義材(よしき)と名乗っていました。
しかし義稙は幕府そして将軍の武威を示すために遠征を繰り返し、これが諸大名の反発を招きます。そのため富子や管領・細川政元は強引に将軍交代を実現します。これが「明応の政変」と呼ばれるクーデターで、「応仁の乱」ではなくこの事件以後を戦国時代と呼ぶ見解もあります。
なお、鎌倉・室町・江戸という武家政権において彼は唯一、将軍職を再任した人物ですが、そのことは後述します。
11代将軍・足利義澄(よしずみ)
幽閉された義稙(のちに脱走)に代わって将軍に擁立されたのが義澄です。
義澄の父は堀越公方・足利政知で、義澄も関東で生まれています。しかし堀越公方の後継者は異母兄の茶々丸に決まっていたため、幼少の頃から京に招かれ天龍寺香厳院の僧になっています。ちなみにこの茶々丸はのちに伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、堀越公方家は滅亡しています。
還俗して将軍についた義澄ですが、基本的には細川政元の傀儡でした。そのため「永正の錯乱」で政元が暗殺されるとスポンサーを失うこととなり、周防の大名・大内氏を味方につけた義稙の上洛を許し、義澄は京から近江に逃亡しました。
おもしろいのがこのとき義澄が頼ったのは義尚や義稙が討伐した六角氏で、「敵の敵は味方」みたいなことがよくありました。義澄はその後も京への復帰を目指しますが叶うことなく病死し、ふたりの息子が播磨の赤松氏と阿波の細川氏に引き取られています。
足利義稙の将軍職再任
上洛を果たした義稙は将軍職に再任します。京を追われてから15年、43歳での復帰となりました。
前回クーデターを起こされた反省もあり、義稙も10年ほどはおとなしくしていたのですが、畿内最大の実力者であった管領・細川高国と対立したため、義稙は京から堺に逃げます。義稙はその後も再起を図りますが、最終的に阿波で死去しました。
12代将軍・足利義晴(よしはる)
父の宿敵であった義稙に代わって擁立されたのが当時11歳の足利義晴です。
義澄の子のうち、赤松氏に預けられたのが義晴でした。もうひとりの義維(よしつな)は高国のライバルである阿波守護・細川晴元のもとにいたので義晴が選ばれたようです。
しかし将軍職を狙う弟・義維と、それを支援する晴元が何度も京に攻め込み、高国が敗れるたびに義晴も京を追われて近江に逃げています。最終的に高国は晴元によって滅ぼされるのですが、義晴は晴元と和睦して将軍職の継続を模索します。晴元にとっても細川京兆家の家督と管領職が手に入れば、将軍が誰でもよかったのかもしれません。ちなみに近江亡命中も幕府としては存続しており、この数年間を「近江幕府」と呼ぶそうです。
京に復帰した義晴ですが、今度は晴元が家臣の三好長慶と対立し京を追われると、晴元を指示していた義晴も京にいられなくなり、また近江に逃亡します。義晴は京都奪還を目指し、銀閣寺の裏山に中尾城を築きましたが、過労がたたったのか病死しています。
13代将軍・足利義輝(よしてる)
義晴の嫡男・義輝はわずか11歳で将軍職を父から譲られていますが、将軍宣下は近江坂本でおこなわれています。
「麒麟がくる」でも語られていたように、義輝は子どもの頃から父とともに京への復帰と近江(坂本や朽木)への逃亡を繰り返しました。
義輝は仇敵である三好長慶を倒すために画策します。中尾城の戦いで敗れ、暗殺にも失敗し、さらに霊山城での戦いにも敗れたため、近江朽木谷に逃れました。このあたりがドラマで描かれた朽木谷での話です。
その後、長慶と和睦した義輝は京に復帰すると、長慶と協調路線をとり、同時に大名間の争いの仲裁をしたり、偏諱を与えるなど将軍権力の強化を図っています。
しかし好転しはじめた矢先に長慶が死去すると、弱体化した三好家の脅威となってしまった義輝は殺害されます。これを「永禄の変」といいます。ただし当初から暗殺を目的としたかどうかについては定かではなく(じっさい将軍殺害は諸大名を敵に回すリスクも大きい)、ドラマのとおり、京から追い払う、あるいは将軍職を退かせるだけの予定だったという説もあります。
14代将軍・足利義栄(よしひで)
義栄の父は足利義維で、かつて義晴と将軍職を争った人物です。義維自身は将軍になることはできなかったのですが、子どもが将軍の座につくことになります。
義輝殺害が1565年(永禄8年)5月19日、義栄の将軍就任が1568年(永禄11年)2月8日なので、ここでも3年弱の空白期間が生じています。
将軍に就任したものの、擁立した三好家内部の抗争(三人衆と松永久秀の争い)がおさまらなかったこともあり、義栄は京に入ることができず、そのまま将軍宣下を受けた摂津富田にとどまっていました。そして同年9月には足利義昭を奉じた織田信長の軍勢が上洛すると、まもなく義栄は病死しています。ただし亡くなった日も場所も諸説あり、将軍の最後が明らかでないというあたりに、この当時の混乱ぶりが象徴されています。
15代将軍・足利義昭(よしあき)
義昭は義輝の弟で、奈良の興福寺一乗院で僧となっていました。
義輝が殺害されると後継候補だった義昭(この時点では還俗前なので覚慶と名乗っていた)は幽閉されますが、細川藤孝らによって救出され、近江、若狭、そして越前へと亡命しています。
最終的には織田信長を頼り上洛を果たすと、義栄が死去したこともあり、征夷大将軍に就任しています。当初は信長を父と呼ぶほど蜜月の関係にあった両者でしたが、次第に対立することになり、ついに義昭は挙兵します。しかし信長に敗れると京から追放されます。
義昭は河内や紀伊に逃れて、その後も「信長包囲網」を画策しますが連携不足で各個撃破されると、毛利輝元を頼って亡命します。信長討伐と再上洛を目指したさなかの1582年(天正10年)、信長が「本能寺の変」で倒れると義昭は上洛を目指しますが、それが叶ったのは1587年(天正15年)のことで、すでに天下は豊臣秀吉のものとなっていました。翌年1月、義昭は将軍職を辞したのちに出家し、10年ほどの余生を過ごしています。
幼少より僧として育てられた義昭は最後もまた僧として死んだことになります。
まとめ
現在の教科書でも信長が義昭を京から追放した1573年(元亀4年)を室町幕府の滅亡としています。
しかし過去に「明応の政変」で将軍職を解任され、周防に逃れた義稙がのちに京への復帰と将軍再任を果たしているように、義昭が京都に復帰する可能性は当時も考えられていたようです。じっさい義昭自身も将軍として全国の大名に御内書(=将軍が発給した私文書のこと)を出しており、12代・義晴の「近江幕府」のように「鞆幕府」として存続していたとする説もあります。
幕府の本拠がどこにあったのかという問題と、朝廷に任じられた将軍職の就任期間の問題をわけて考えると、室町幕府の終了年は義昭が将軍職を辞任した1588年(天正16年)ともいえます。
ともあれ「応仁の乱」の最中に就任した9代・義尚から15代・義昭まで、戦国時代においても足利将軍が、ときに畿内の実力者の傀儡として、ときに彼らに抵抗して争いながらも、武家社会の中心であったことはまちがいなく、それは将軍という権威や人脈が戦国大名にとって有益な存在だったからでした。
武家の棟梁としてひとつにまとめるための将軍の存在が、戦乱の世で武家同士が相争う状況であるがゆえに価値が高まるというのも皮肉な話ですが、信長そして秀吉によって国内がひとつにまとまりはじめるとその価値が暴落することとなり、やがて不要になりました。
ほんとうは将軍に味方した大名、敵対した大名、将軍が偏諱を与えた大名など、将軍と各大名の関係なども書きたかったのですが、今回はざっくり理解することを優先したため、なるだけ将軍以外の個人名は少なくして紹介することを心がけました。
まずはこの将軍家の家系図と個々人のエピソードとおおまかな流れを理解してもらえるとうれしいです。
参考書籍
とはいえぼくもまだまだ勉強中で、とくに今回は以下の書籍に助けられました。
とくに足利義政が将軍職を義尚に譲ったあとも政務に口を出しつづけていたというのは知りませんでした。義政というと政治に無関心で将軍職を放り投げると趣味(文化・芸術)の世界に生きた人という印象が強かったのですが、引退後も政治に積極的にかかわっていたようです。
そのほかいろいろとおもしろい話が書いてあるので、ざっくりじゃなくもうちょっとちゃんと理解したいという方はぜひお読みください。
以下は読んでないのですが、きっと参考になると思います。