「本能寺の変」はいまだに真実がわからない日本史上最大のミステリーですが、それゆえに誰が犯人なのかについて、いろんな説が提唱されています。
そこで今回はどういう説があるのかを整理してみたいと思います。
織田信長 (講談社学習コミック―アトムポケット人物館)P.134
けっきょくは明智光秀が織田信長を殺害したクーデターであることは事実なので、その謀反の理由、さらには黒幕の存在といったところが諸説あるんですね。
明智光秀単独犯行説
実行犯が明智光秀であることはまちがいないのですが、黒幕などいなくて彼自身の単独犯行であるという説の中にも、その動機についての諸説があります。
明智光秀による怨恨説
たぶんぼくらが学校で教わったのはこれですね。学習マンガでもよく使われている説です。
織田信長―乱世の戦い (学研まんが人物日本史 安土時代)P.119
恨みを抱いたきっかけとしては、いくつかあります。
ひとつ目は、丹波八上城を攻めた際に、城主の波多野秀治は助命を条件に降伏を申し出たのですが、信長がそれを許さなかったために、仕返しとして光秀の母親を殺されたというもの。
ふたつ目は徳川家康を安土城に招いた際に接待役として任命された光秀が、鮒寿司を出して「腐った魚を出すな」と信長の怒りを買い、接待役を解任され、面目を失ったというもの。
3つ目は領地の近江・丹波を召し上げられ、まだ敵地の出雲・石見に国替えを命ぜられたというもの。
ただし、これらは後世の創作のようですね。
主君を裏切るわけですから、このくらいの恨みつらみがないと納得がいかないというのが、ぼくらがこの怨恨説をついつい信じちゃう理由なのでしょうね。
明智光秀による野望説
戦国時代は下克上なのだから、怨恨じゃなくても主君を討つことは珍しくない、という立場で、光秀の天下簒奪の野心を理由とするのが野望説です。
戦国史の権威であった高柳光壽さんが、ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」といった光秀評があり、こうした記述などから光秀は武将として合理的な性格で、信長との相性も良かったはずで、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものとし、史実とは認められないと主張しています。
じっさい本能寺の変の前年に光秀が記した『明智家法』にも信長に対して尊崇の念を抱いていることが伺える内容が書いてあることからも、長年の恨みつらみが原因ではなく、あくまでも冷静に情勢を分析した光秀が千載一遇の好機としてクーデターに及んだと考えるのが、この野望説です。
野望説のひとつとして、理想相違説と呼ばれるものもあります。
これは信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説で、信長が伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進めようとしたのに対して、光秀は室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたことから、光秀は自分の理想が信長のもとでは実現できないことを悟って謀反に至ったとされる説です。
じっさい光秀の理想に近い状態は、のちの徳川政権が実現しており、江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡ってつづいています。
このあたりから「南光坊天海は光秀だった」という説が生まれたりするんでしょうね。
明智光秀による焦慮説
本能寺の変の2年前、1580年(天正8年)には、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった歴代の重臣が大量追放されていることから、重臣でありながら織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間である光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説です。
また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられています。
明智光秀による非道阻止説
小和田哲男さんが提唱する説で、信長の非道を止めるために謀反を起こしたとするものです。
具体的には、尾張の暦に統一するよう朝廷に迫ったり(公家の勧修寺晴豊は日記に「これ信長むりなる事候」と書いている)、太政大臣・近衛前久への暴言だったり、恵林寺を焼いて快川紹喜を殺したことなどが挙げられています。
光秀の手紙に「父子悪逆天下之妨討候」とあるそうです。
黒幕説
つづいて「黒幕説」です。「黒幕説」は「謀略説」や「積極関与説」ともいわれていますが、ほんとうにたくさんの候補者が上がっています。
おもだった人物・勢力としては、朝廷、長宗我部元親、毛利輝元、足利義昭、斎藤利三、羽柴秀吉、徳川家康、本願寺顕如、高野山、イエズス会、堺商人、黒田官兵衛などが挙げられています。
織田信長―戦国の覇王 (学研まんが伝記シリーズ)P.116
斎藤利三積極関与説
四国征伐回避説、ともいわれます。 光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)がかなり深く関わっていることは、当時の記録である山科言経(やましなときつね)の日記や、利三がただの斬首ではなく身体を引き裂く車裂きという残虐な処刑方法がとられた記録からも、ほぼまちがいないとされています。
ではなぜ利三は信長を亡き者にする必要があったのか。それが四国なのです。つまり信長の四国政策変更が理由で、長宗我部元親と姻戚関係(利三の妹が元親の妻)を結んでいた利三が、自分の立場を危うんで光秀に謀反を勧めたという説です。
四国政策変更というのは当初、元親と友好関係だった信長が、元親の四国統一をよしとせず、土佐・阿波2郡のみの領有と上洛を命じたことを指します。これを元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国攻めを開始したということです。
じっさい本能寺の変のときには信孝、丹羽長秀らによる本隊が大坂より出陣する予定でした。
さらに斎藤利三にはもうひとつ理由があって、まだ利三が稲葉一鉄の家来だったときに光秀が家臣として召し仕えたので、利三は信長に切腹を言い渡されたことがあります。また信長は光秀に対しても利三を一鉄の元へ返すよう命じており、光秀がこれを拒否したため信長は光秀の髷を掴み突き飛ばしたという逸話があります。
これらのことから利三が積極的に謀反を勧めたとされます。
ただいくら重臣の命がけの進言とはいえ、光秀ほどの武将が簡単にその策に乗るかというと微妙ですよね。
足利義昭黒幕説
自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説です。
これはけっこうありそうな気もするんですが、信長を討つ際も、その後に細川藤孝や筒井順慶へ協力を求めた際にも、義昭の名前が見当たらないことが不自然なんですよね。このままでは光秀は主君・信長に逆らった逆賊でしかなく、その行為の正統性を示すためにも足利義昭の名前を出すのは当然です。
たぶんこれはないと思います。
朝廷黒幕説
次は朝廷です。
いわゆる「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説です。
さらに当時は秀吉による中国攻めが佳境を迎えており、その結果として毛利家が滅べば、その後ろ盾により即位した正親町天皇は譲位せざるをえない状況に陥ることからも、信長を排除する根拠になります。
ただしこの場合も光秀が朝廷の名前を出さない理由がないんですよね。朝敵として信長を討ったほうがいいわけですし。
じっさい本能寺の変の後、光秀は朝廷に参内し金品を下賜されているものの、朝廷側が光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、さらに光秀も勅命によるものであるという主張をしておらず、光秀は実行者としてなにひとつ恩恵を得ていないことになります。
また変の当日、誠仁親王が二条御所にいたことも説明がつかないんですよね。
二条御所での信忠たちの対応次第では、親王が戦いに巻き込まれて死亡した可能性もあるわけで、事前に事件が起こることを知っていたのであれば、避難していなければおかしいんです。
この説もちょっと弱いですね。
イエズス会・南欧勢力黒幕説
イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説で、「信長政権が南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」というちょっとトンデモな説でもあります。
(大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとか、いろいろファンキーな説です)
ただし信長はイエズス会から資金提供を受けていたといっても、当時のイエズス会には資金力がなく、会を維持運営するのにも事欠くありさまだったことからも、信長を財政的に援助するのは不可能だったと思われます。
信長がそれまでの戦国大名と異なり、経済力がずば抜けていた点に着目した説なんでしょうが、現在では提唱した立花京子さん自身もこの説を否定していることからも、候補からはずしていいでしょう。
羽柴秀吉謀略説
いわゆる「信長の死によっていちばん利益を得たものが犯人」というミステリーの常識から導きだされたのが、この秀吉が黒幕だったという説です。
「へうげもの」ではたしかこの説をとってましたね(羽柴秀吉と千利休が首謀者)。
備中高松城が開城寸前にもかかわらず信長に出馬を要請したこと、またまるで事前に知っていたかのような「中国大返し」を根拠にしています。
ただし結果的に天下人となったとはいえ、本能寺の変が起こったときには神戸信孝(織田信長の三男)や重臣の丹羽長秀がより京に近い堺にいたこと、また信長を殺すことはできても、すでに織田家の家督は信忠に譲られており、その信忠には逃げるチャンスが十分にあったことから、あくまでも「結果論」にすぎないと考えたほうが自然でしょうね。
徳川家康謀略説
この説も秀吉説同様、結果的に利益を得た人物として、徳川家康が黒幕だったとされる説です。
家康最大の危機とされる「神君伊賀越え」(伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った)も出来すぎとも取れるわけで、これは予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュと解釈しています。
では、家康が信長を殺す理由はなにか。
織田家と徳川家は後世に美化されたような「同盟」という対等の関係でなくきわめて従属的なものであり、じっさい三方ヶ原の戦いでは家康は援軍要請を断られています。
そうしたことが家康自身、そして家臣団にとって、信長への不信感につながったことは考えられます。
さらに今川・武田の両家が滅亡した段階(武田家の滅亡は本能寺の変の直前)において、信長の東方平定のためにはむしろ徳川家は邪魔になっており、早々に完全な従属化か滅ぼされるべき存在になってしまってことを考えれば、家康が徳川家を守るために信長を討とうとするのは自然な流れですね。
もっともこの説は状況証拠しかないですし、秀吉謀略説もそうなんですが、光秀が共謀者である家康の名前をいっさい残していないことからも根拠が薄い説です。
けっきょく黒幕はいなかった?
最近はどうやら黒幕など最初からいない(=単独犯行説)というのが主流のようです。
「本能寺の変」後は京を中心に混乱する畿内を治める絶好の機会であったのに、秀吉以外、誰も何の行動も起こさないのは不自然であること、これまでに見てきたとおり、光秀が新たな主君として担ぎ上げて、天下に大々的に号令をかけようとする人物も誰もいなかったことなどがその理由です。
秘密裏に信長殺害が成就できたということ自体が、光秀による単独犯行である可能性を示しているともいわれていて、ようは発作的犯行だから事前にバレなかったということですね。
たしかに、黒幕や共犯者がいれば事前に露見したことは十分考えられますし、なんらかの書類が残ってると思うので、ぼくも黒幕はいなかった説を支持しています。
ただし、まだまだ新しい証拠や新事実が出てくるかもしれませんから、この本能寺の変の謎については今後も注目しましょう。