1600年(慶応5年)、徳川家康と石田三成が争った関ヶ原の戦い。
多くの武将が参戦し、劇的な戦いを繰り広げた人物もいた。
今回はその中から有名な「島津の退き口」を紹介したいと思う。
島津義弘率いる島津勢は三成の西軍に属していた。
しかし、戦い自体にはほとんど干渉せず、自分の陣に攻めて来た敵をなぎ払う程度だったようだ。
そんな中、西軍の小早川秀秋が東軍を裏切ったのを皮切りに、東軍が総攻撃をかけた。
西軍は総崩れとなり、三成の隊も粘ったが敵わず、敗北が決まる。
島津勢は西軍の中で最後まで陣を崩さなかったが、ついには包囲されてしまう。
ここで島津軍のとった選択が、前進での退却である。
退却とは普通、敵陣とは反対の方向に進んでいくものである。
しかし島津勢は逆に、敵陣に突っ込んでいくかのように前進したのだ。
立ちはだかった武将は松平忠吉と井伊直政。
忠吉は島津勢の武将の首を一つとったが、島津勢の銃による攻撃で直政とともに怪我を負った。
この銃が無茶な退却に大きく役立ち、島津勢を救っている。
徳川勢もここで島津勢を追うのを断念している。
とはいえこの戦いにより島津勢はかなりの数の武士が戦死した。
はじめ数百人いた武士たちが、最終的には百人弱にまで減ってしまったのである。
散った者たちの中には副将の豊久もおり、義久にとっては大きな痛手であっただろう。
この後も島津勢には辛い道のりだった。
詳細は明らかにされていないものの、徳川勢の追撃を避けるために夜間に峠を越えたりしたという。
そうして島津勢は近江の水口まで逃げ切り、関ヶ原の戦いから18日後、自国に戻ることができた。
戦後、敗れた西軍の武将たちは軒並み所領を奪われたが、そんな中、島津だけは元の所領をそのまま保証されている。
それだけ徳川にとって、島津は恐れられる存在だったのかもしれない。