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二条城歴史講座「二条城は誰のものか―明治維新後の歩みをたどって―」を聞いてきました

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11月10日(日)に二条城で開催された二条城歴史講座「二条城は誰のものか―明治維新後の歩みをたどって―」を聞いてきたのでレポートを書きます。

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今回は同志社大学の小林先生が講演されたのですが、最初に日本人はいろんな文化財のなかでもとりわけお城について関心が高いですねと話されていました。
そして寺社とちがってお城は実用的な価値はないのだけど、だからこそ「なぜ保存するのか?」という視点で考えることが重要で、じつはそれは江戸時代の二条城にも通じるという導入でした。

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たしかに二条城は3代・家光の頃までは幕府にとって重要な位置づけでしたが、以降は幕末に14代・家茂が上洛するまで200年以上放置されていました。
つまり徳川幕府にとっても「なんのためにあるのか(必要なのか)」というお城だったわけです。

明治維新後も多くのお城は学校の敷地になったり、県庁になったりしたのに、二条城は(一時は府庁として使われたものの)離宮として活用されるというかなり特異な経歴を持っています。
お城でありながら大名が在城するわけでもなく、幕府の出先機関であったため武家町なども存在しない二条城は、現代社会においてお城の存在意義(や価値)を考える手がかりとして、二条城はいいモデルケースになるのではと話されていました。

意外と記録が残っていない近代の二条城

幕末の二条城がどうだったかですが、すでに天守は雷で消失し、「天明の大火」で本丸御殿や北側の隅櫓なども焼失しており、建物としては二の丸御殿が残っていたものの、相当傷んでいたようです。
家茂が上洛するのにあわせて急遽、修復・整備をしたのですが、その当時の二条城についての数少ない記録が池坊に残っています。

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これは黒書院に有力な町衆たちが招待された日の記録のようですが、黒書院の東側にある「牡丹の間」に居並ぶ最前列に「池坊」の名前があります。家茂に謁見するという名誉な機会だったので記録に残したんでしょうね。

そして時代は進み、大政奉還がおこなわれると二条城は新政府のものとなり、城内に太政官代のほか、学習院・金穀出納所・会計事務裁判所などが設置されることになります。
さらに本丸に仮皇居を造営する計画が上がりましたが、これは実現せず、逆に太政官代のほうが御所に移転します。

その後、京都府庁になるわけですが、これは京都府側から役所として使わせてほしいと要望したそうです。
廃藩置県後にお城が役所として使われることは全国的にもけっこうあったようですね。
この頃の二条城の様子の模式図がこれです。二の丸御殿のほか、いまも残る番所や米蔵なども記載されてますね。
(北大手門の下にある建物と、中央下にある建物がわからない)

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京都府庁が二条城に移転する前は京都守護職上屋敷にありました。ここは現在の京都府庁がある場所で、要するに庁舎が同じ場所に戻ってきてるわけですね。
移転後の1872年(明治5年)2月7日には京都府が修繕費用の増額を大蔵大輔・井上馨に申請するのですが却下されています。こういう記録は残ってるんですね。

廃城令を生き残った二条城は府庁から離宮に

そして1873年(明治6年)には廃城令が出されるわけですが、正確には「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」といって取り壊すお城と残すお城を選別するという決定でした。
不要なお城は大蔵省が売却用財産として処分し、残すお城は陸軍省の管轄になります。
これはお城が見晴らしのいい高台に築かれることが多かったり、広大な敷地を有していることから軍事施設への転用が有効だと考えられてのことらしいのですが、二条城は残す側に入ったもののあいにく(幸い?)敷地も狭く、京の町中にあるので軍事施設として使いみちがなかったことから、そのまま継続して京都府に無償貸与されます。

1881年(明治14年)に京都府知事が槇村正直から北垣国道に交代すると、府庁を再移転して二条城を離宮にする案が出されます。
北垣さんは琵琶湖疏水を完成させた人として有名ですが、彼の日記に離宮にしましょうと進言したことが書いてあります。また同時期の朝日新聞には二条城・大阪城・敦賀城が離宮に定められるという噂が流れていたという記事がありました。

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結果、1884年(明治17年)に二条城が離宮となり、二条離宮に解消され、翌年府庁が移転(退去)しています。

国の迎賓施設になったことで本格的な修理がおこなわれた

府庁時代は応急的な修理しかしていなかったようですが、二条離宮になったことで大規模な修繕工事がおこなわれます。

  • 二の丸御殿内は畳敷きも検討したが板敷きに絨毯張り
  • 唐門屋根は瓦葺も検討したが檜皮葺に
  • 御殿床下の柱補修工事

といった修繕が記録に残っているそうです。
また本丸に旧桂宮邸を移築して、二の丸御殿内の障壁画・天井画も一部新調しました。
旧桂宮邸というのは現在の本丸御殿のことですが、これが移築された当時の模式図がこちらです。

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明治時代には二条離宮を訪問した外国人による見聞記も20件くらい見つかっていて、御殿内の金碧障壁画を絶賛しているものもあれば、「和風建築に絨毯はひどい」と酷評しているものもあるとか。

1915年(大正4年)には大正天皇の即位にともなう大饗宴場として二条離宮が使われることになりますが、このときに多くの建物が増築されています。

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ただしこれら増築された建物は式典後に京都府や京都市などに下賜されていて残っていません。
また式典の際には二の丸御殿の床はすべて絨毯張りに統一されたのですが、このあと段階的に薄縁(うすべり)敷きに変更されていきます。
このあたりの床の変更はその時々の用途に応じて変えたのだろうとおっしゃってました。絨毯であれ、畳であれ、傷んで交換するタイミングが必ずくるので、その時点でどうするかを検討して絨毯にしたり、畳にしたりしたのだろうと。

恩賜元離宮二条城の誕生

1939年(昭和14年)10月25日には全国にある離宮や御用邸が整理され、二条城は京都市に下賜されます。この背景には維持管理にかかるコストの負担を軽減したい思惑があったようです。

その後は以下のページにある年表のとおりなので割愛します。

kojodan.jp

二条城の歴史というと幕府やせいぜい公家の記録くらいしか気にしたことがなかったのですが、今回のように近世・近代が対象となると池坊だったり、海外からの来賓の日記などにも二条城の様子が書かれているんですね。
そういう新しい視点での見方を教わったことがとてもおもしろかったです。

最後に、この歴史講座は平成29年〜30年にかけて実施された「二条城歴史調査」の結果を踏まえ、調査に参加された先生方がご自身の担当領域についてお話してくださるシリーズ講座で、次回は11月23日に京都大学の藤井先生が「江戸時代の二条城」というタイトルで講演されます。
その後も継続されるそうなので楽しみですね。ぼくもできるだけ参加してレポートしたいと思います。

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