二条城
二条城

[京都府][山城] 京都府京都市中京区二条城町541


  • 平均評価:★★★★☆ 4.01(13位)
  • 見学時間:1時間27分(26位)
  • 攻城人数:4942(7位)

二条城の歴史

二条城は「関ケ原の戦い」の翌年に天下普請で築かれてから、現在に至るまで長い歴史を刻んできました。400年以上にわたるその歴史についてまとめます。

築城当時の二条城(慶長期二条城)

初代二条城は徳川家康の上洛時の宿所として1601年(慶長6年)5月に築城が開始されました。造営総奉行は京都所司代に就任した板倉勝重が、作事(建築)の大工棟梁は中井正清がつとめました。
2年後の1603年(慶長8年)3月に竣工しましたが、天守は1606年(慶長11年)に完成しています。この天守は現在の天守台の位置ではなく、御殿の北西の場所にありました。また天守自体は大和郡山城からの移築説や新築説があります。

慶長期二条城復元図[二条城]
提供:香川元太郎 | 慶長期二条城復元図[二条城]

なお当初の城域は現在の二の丸部分のみでした。幕府は「二条城」と称しましたが、朝廷側は「二条亭」と呼んだそうです。

二条城行幸図(右隻)[二条城]
提供:海の見える杜美術館 | 二条城行幸図(右隻)[二条城]
二条城行幸図(左隻)[二条城]
提供:海の見える杜美術館 | 二条城行幸図(左隻)[二条城]

家光は城域を大幅に拡張して本丸と二の丸の輪郭式縄張りとして、天守もあらたに(一国一城令で廃城となった)伏見城から移築しています(天守は新築説もあり)。
この天守は天皇がのぼった唯一の天守でもあり、後水尾天皇は5日間の行幸の間に二度のぼり、「今が弥勒の世なるべし」と感嘆したと伝わっています。

寛永期二条城復元図[二条城]
提供:香川元太郎 | 寛永期二条城復元図[二条城]

また現在の二の丸庭園の位置に天皇が滞在するための行幸御殿が築かれました。
この行幸御殿を後水尾天皇が気に入ったため、譲位して上皇となった1627年(寛永4年)、京都新城跡に造営された仙洞御所に多くの建物が移築されましたが、のちに火災で焼失しています。

なお行幸御殿にあった唐門はもとは伏見城のものだと伝わっており、1627年(寛永4年)の解体時に以心崇伝が譲り受けて南禅寺金地院に移築、さらに豊国神社の唐門として移築されています。
この唐門は西本願寺唐門・大徳寺唐門と並んで、桃山の三唐門のひとつです(いずれも国宝)。

その後の二条城

その後、秀忠が死去したのちに家光が上洛のために二条城に入城したのを最期に、幕末に家茂が上洛するまで約230年にわたり、二条城は表舞台から消え、荒れていました。
1750年(寛延3年)に天守が、1788年(天明8年)には本丸御殿が焼失しましたが再建されることはなく、幕府は二条城を管理するための役職(二条在番)を設けましたが、将軍不在の二条城が幕府の政庁として使われることはありませんでした。

幕末、大政奉還

1863年(文久3年)、皇女和宮の降嫁(こうか)に謝辞を述べ、攘夷決行の策を上奏する名目で14代将軍の徳川家茂が上洛し、その際は二条城から参内しています。
この上洛の準備として、前年から改修工事がおこなわれ、二の丸御殿は全面的に修復されました。
さらに1865年(慶応元年)にも家茂は再度上洛して二条城に入っていますが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るために大坂城へ移ると、そのまま病に倒れ、翌年死去しています。

1866年(慶応2年)に将軍に就任した徳川慶喜は将軍として在位した一年一ヶ月余りを二条城で過ごしています。そして二の丸御殿は歴史に残る「大政奉還」を宣言する舞台となりました。
しかし政権と将軍職を返上するだけでは事態は収まらず、1868年(明治元年)2月3日には明治天皇が行幸され、二の丸御殿・白書院で幕府討伐の詔を発します。この結果、徳川将軍家は逆賊となり、薩長を中心とする倒幕軍は江戸へと向かいます。

二条城は若年寄・永井尚志に代わり、水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役をつとめていましたが、新政府軍に接収されました。

明治以降

時代が明治に変わると、二の丸御殿は京都府庁舎として使用されました。二の丸御殿・蘇鉄の間には当時の職員が試し捺ししたと思われる「京都府」の焼印の跡があります。
さらに陸軍省の所管に移されたのち、1884年(明治17年)には宮内省の所管となり「二条離宮」と改称しました。

いわゆる「二条城」の歴史はここで終わることになります。
現在、二条城は城内全体が国の史跡に指定されていますが、正式な登録名は「旧二条離宮(二条城)」です。

なお、1885年(明治18年)から明治25年(1892年)まで二の丸御殿の修理がおこなわれています。また1893年(明治26年)から翌年にかけて、御所北東部にあった旧桂宮邸を本丸へ移築しました。これが現在の本丸御殿です。

その後、1915年(大正4年)には大正天皇の即位の際に開かれた祝賀会の会場として使用されました。このときに南門がつくられています。

そしてヨーロッパで第二次世界大戦が勃発する1939年(昭和14年)に宮内省から京都市に下賜され、以降「元離宮二条城」という名称となり、翌年から一般公開されました。
しかし第二次世界大戦後には、GHQの意向で二の丸北側(現在の清流園のあたり)にテニスコートがつくられたり、東大手門前の堀川通は滑走路として使用されたりと、二条城も戦争や占領軍の影響を受けています。

近年では、1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されました。

二条城の歴史・沿革

略年表

西暦(和暦) 出来事
1601年(慶長6年) 徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年) 二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年) 城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年) 天守が完成する。
1611年(慶長16年) 家康が豊臣秀頼と会見する。
1614年(慶長19年) 大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
1615年(元和元年) 豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。
1620年(元和6年) 2代秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として二条城より入内する。
1624年(寛永元年) 3代家光が行幸に向けて城の拡張、殿舎の整備に着手する。
1625年(寛永2年) 二条城を守衛する役として二条城代を設置。渡辺山城守が初代。
1626年(寛永3年) 本丸、二の丸、天守の増改築が完了する。9月に後水尾天皇が中宮和子とともに行幸(5日間)。
1634年(寛永11年) 家光が30万人と称する大軍を率いて上洛し、入城する。
1662年(寛文2年) 大地震のため、城内各所が被害を受ける。
1699年(元禄12年) 二条城代を廃止して、職務は二条城在番が引き継ぐ。
1750年(寛延3年) 8月、落雷により天守が焼失する。
1767年(明和4年) 二条在番を廃止して、二条城番を設置する。
1788年(天明8年) 1月、市中の大火により本丸御殿、櫓、西門などが焼失する(天明の大火)。
1863年(文久3年) 14代家茂が入城する。
1866年(慶応2年) 城内において慶喜が将軍宣下を受け、15代将軍に就任する。
1867年(慶応3年) 10月、二の丸御殿に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還を宣言する。徳川幕府の終焉。
1868年(明治元年) 1月、城内に太政官代が置かれる(現在の内閣にあたる)。
1871年(明治4年) 京都府庁舎となり、二の丸御殿内に府庁が置かれる(のち一時陸軍省になる)。
1884年(明治17年) 7月、宮内省所管となり「二条離宮」となる。
1893年(明治26年) 旧桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。移築工事は翌年完了。あわせて本丸庭園を造成。
1915年(大正4年) 大正天皇即位の大典がおこなわれる。南門ができる。
1939年(昭和14年) 宮内省が二条離宮を京都市に下賜。
1940年(昭和15年) 2月11日、「恩賜元離宮二条城」として一般公開をはじめる。
1952年(昭和27年) 文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、本丸御殿や隅櫓など22棟の建物が重要文化財指定に指定される。
1953年(昭和28年) 二の丸庭園が特別名勝に指定される。
1965年(昭和40年) 清流園が造成される。
1982年(昭和57年) 狩野派による二の丸御殿内の障壁画が重要文化財に指定される。
1994年(平成6年) ユネスコ世界文化遺産として登録される。
2005年(平成17年) 「築城400年記念 展示・収蔵館」が開館する。
2014年(平成26年) 東大手門の修復工事がはじまる。
2017年(平成29年) 3月、東大手門の修復工事が完成する。

詳細年表

日付は旧暦です。二条城に直接関係していなくても、関連していると思われる出来事も記載しています。
1601年(慶長6年)
  • 5月13日、家康、京都屋敷の地を見聞。
  • 5月、家康の屋敷建築のため、町家四、五千軒が立ち退く。
  • 10月9日、家康、京中の屋形を測量する。
  • 12月、家康、西国の諸大名に命じて二条城の造営に着手。
1602年(慶長7年)
  • 5月、御殿作事に着手。
  • 11月29日、家康、松10本植樹のために北野人足を雇用。
1603年(慶長8年)
  • 2月12日、家康、伏見城において将軍宣下を受ける。
  • 3月7日、山科言経等、二条城見物。
  • 3月21日、家康、拝賀の礼をおこなうために二条城に入城。殿舎はほぼ完成。
  • 3月25日、家康、参内して、拝賀の礼をおこなう。
  • 3月27日、勅使、二条城に至り、家康に太刀等を賜う。親王、公家衆、重臣らを招いて将軍就任の祝賀をおこなう。
  • 4月1日、公家衆、二条城に至り、家康に謁見。
  • 4月4日〜7日、家康、公家衆、諸大名、門跡等を招き、能を催す。
  • 4月16日、家康、伏見城に帰る。
  • 7月3日、家康、伏見城から二条城に入る。
  • 7月7日〜8日、二条城で能あり。
  • 7月15日、家康、二条城から伏見城に帰る。10月18日、伏見城から江戸城に帰る。
1604年(慶長9年)
  • 3月29日、家康上洛、伏見城に入る。
  • 6月10日、家康、伏見城から二条城に入る。
  • 6月22日、家康、参内する。
  • 6月23日、親王、門跡(もんぜき)、公家等が二条城に至り、家康に歳首を賀す。
  • 6月24日〜25日、家康、二条城に高台院、公家衆を招いて能を催す。
  • 7月1日、家康、二条城から伏見城に帰る。閏8月14日、伏見城から江戸城に帰る。
1605年(慶長10年)
  • 2月19日、家康上洛、伏見城に入る。
  • 3月21日、秀忠上洛、伏見城に入る。
  • 4月8日、家康、伏見城から二条城に入る。
  • 4月10日、家康、参内する。
  • 4月12日、親王、公家衆、門跡等が二条城に至り、家康に歳首を賀す。
  • 4月15日、家康、伏見城に帰る。
  • 4月16日、秀忠、伏見城において将軍宣下を受ける。
  • 4月17日、秀忠、二条城に入る。
  • 4月27日、公家衆、門跡等が二条城に至り、将軍宣下を賀す。秀忠、伏見城に帰る。6月4日、伏見城から江戸城に帰る。
  • 7月21日、家康、伏見城から二条城に入る。林信勝を二条城へ召す。
  • 8月1日、公家衆、二条城に至り、家康に八朔を賀す。
  • 8月17日、二条城で乱舞あり。公家衆および神龍院梵舜等が伺侯(しこう)する。
  • 8月19日、仁和寺覚深親王、諸門跡首座着任の礼のため、二条城に家康を訪問する。
  • 8月22日、家康、伏見城に帰る。9月15日、伏見城から江戸城に帰る。
  • 天守、取付け櫓、小天守、廊下の造立に着手。翌年4月頃まで継続。
1606年(慶長11年)
  • 4月6日、家康上洛、伏見城に入る。
  • 7月27日、家康、伏見城から二条城に入る。
  • 8月1日、公家衆、二条城に至り、家康に八朔を賀す。
  • 8月2日〜3日、家康、二条城に高台院、公家衆を招いて能を催す。
  • 8月12日、家康、伏見城に帰る。11月4日、伏見城から江戸城に帰る。
  • 9月、天守完成。
  • この年、幕府、二条城を修築する。
1610年(慶長15年)
  • 11月1日、義演准后、醍醐寺金剛輪院(現・三宝寺)の泉石を二条城に献上する。
1611年(慶長16年)
  • 2月9日、義演、家康の上洛準備のため、数寄屋で使う垣柴60荷を贈る。
  • 3月17日、家康上洛、二条城に入る。
  • 3月28日、家康、二条城で豊臣秀頼と対面する。高台院も同席。
  • 4月2日、勅使、院使、女院使を二条城に遣わす。親王、公家衆、門跡、二条城に至り、家康に拝謁。家康、義直と頼宣を大坂城に遣わし、秀頼の来見に応える。
  • 4月3日、家康、二条城から伏見城に入り、滞留2日で二条城に帰る。
  • 4月8日、家康、高野山大徳院宥雅等を二条城に召し、その論議を聞く。
  • 4月11日、徳川頼宣、二条城にて能を演じ、公家衆、門跡、諸大名が鑑賞する。
  • 4月14日、家康、二条城で能を催し、親王、門跡、公家衆を饗応する。
  • 4月17日、家康の駿河下向に先立ち、勅使を二条城に遣わす。
1614年(慶長19年)
  • 10月20日、大坂方の二条城焼き討ち計画が板倉勝重によって阻止される。
  • 10月23日、家康、頼宣、二条城に入る。家康、藤堂高虎と片桐且元を二条城に召し、大坂城の形勢を問う。
  • 10月24日、勅使伝奏、二条城に至り、家康を慰労する。公家衆、諸大名も二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 10月25日〜28日、公家衆、この間二条城において、家康に拝謁することあり。
  • 10月26日、織田信雄および五山僧徒、二条城に至り、家康に拝謁する。京極高政、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 10月27日、秀忠の使、二条城の家康に、秀忠が江戸城を発し、翌日藤沢に到着したことを報告する。南都一乗院尊勢、喜多院空慶、高野山宝性院深覚、片桐貞隆、石川貞政、池田利隆が二条城に至り、家康に拝謁する。家康、とくに玄隆を召して軍議する。
  • 10月28日、醍醐三宝院准后義演、南都大乗院信尊、堀川本願寺光昭等、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 11月1日、八条宮智仁親王、関白鷹司信尚、先関白二条昭実、同鷹司信房、同九条忠栄、および公家衆、門跡、僧徒等、二条城に至り、家康に拝謁する。丹波福知山城主・有馬豊および池田忠継、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 11月4日、右大臣近衛信尋、権大納言一条兼遐以下公家衆百余人、二条城に至り、家康に拝謁する。この後、公家衆、僧徒等、しばしば二条城において家康に拝謁することあり。
  • 11月6日、伊予松山城主・加藤嘉明の嫡子明成および毛利輝元の使者、二条城に至り、家康に拝謁する。高野山大徳院宥宮城、家康に拝謁する。
  • 11月7日、蜂須賀至鎮、二条城に至り、家康に拝謁する。次いで摂津勝間に陣する。
  • 11月10日、秀忠上洛、伏見城に入る。
  • 11月11日、秀忠、二条城に至り、奥御座の間において家康に拝謁する。伊達政宗、二条城に至り、家康に拝謁し、宇治に赴く。今井宗薫、宗呑父子、監禁されていた大坂城を逃れ、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、命じて堺に帰らせる。
  • 11月12日、上杉景勝、佐竹義宣、二条城に至り、家康に拝謁する。徳川義直、二条城を発して、木津に至る。
  • 11月13日、秀忠、土井利勝を二条城に遣わし、家康と密談させる。常陸麻布藩主・新庄直定、下総田子藩主・土方雄重、下野茂木藩主・細川興元等、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 11月14日、本多正信、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 11月15日、家康、二条城を発し、大坂に向かう。この夜、奈良に至る。秀忠、伏見城を発し、枚方に至る。【大坂冬の陣開戦】
1615年(慶長19年)
  • 12月25日、大坂冬の陣、和議がなり、家康、二条城に凱旋する。
  • 12月26日、公家衆、二条城に至り、家康に拝謁する。片桐且元、板倉勝重、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、伝通院廓山を召し、仏法を談ずる。
  • 12月27日、秀忠、土井利勝を二条城に遣わし、大坂城堀櫓等の取り壊しのことを伝える。梵舜、二条城に至り、家康に三光双覧抄を献じる。
  • 12月28日、家康、参内し、和議成立を奏上する。
  • 12月29日、伝奏、二条城に至り、禁中儀式等七カ条を家康に示す。知恩院良純親王等、二条城において家康に拝謁する。
1615年(慶長20年)
  • 1月1日、豊臣秀頼、使を二条城に遣わし、家康に歳首を賀す。大名、僧等も賀す。
  • 1月3日、家康、二条城から駿府城に帰る。
  • 1月19日、秀忠、伏見城に凱旋する。
  • 1月24日、秀忠、伏見城から二条城に入る。
  • 1月25日、五山の僧徒、二条城に至り、秀忠に歳首を賀す。
  • 1月26日、秀忠、参内する。
  • 1月27日、親王、公家衆、門跡以下、二条城に至り、秀忠に拝謁、和議成立を賀す。
  • 1月28日、秀忠、二条城から江戸城へ帰る。
  • 4月18日、家康、大坂再征のため上洛し、二条城に入る。
  • 4月21日、秀忠、伏見城に入る。
  • 4月22日、秀忠、二条城に至り、家康と密議する。
  • 4月23日、公家衆、二条城ならびに伏見城に至り、家康および秀忠に拝謁する。
  • 4月25日、関東の諸軍、京都に到着する。秀忠、土井利勝と安藤重信を二条城の家康のもとに遣わす。家康、秀忠に翌日の二条城への登城を命じる。
  • 4月26日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、秀忠、28日出陣と定める。徳川義直、頼宣、松平忠輝、家康に拝謁する。
  • 4月27日、大坂夏の陣開戦。
  • 4月29日、秀忠、二条城に至り、家康と密議し、5月3日を進攻の日と命じる。
  • 5月5日、家康、二条城を発し、河内星田に至る。秀忠、伏見城を発し、河内砂に陣す。義直、頼宣等も京都を発す。秀忠、家康の営に至り、軍議をおこなう。
  • 5月8日、大坂城落城。家康、二条城に凱旋する。鍋島勝茂、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 5月9日、秀忠、伏見城に凱旋する。
  • 5月10日、家康、秀忠、諸大名と二条城において謁見し、浅野長晟、松平忠直等の戦功を賞す。
  • 5月11日、秀忠、二条城に至り、家康と密議する。
  • 5月13日、毛利秀就、中川久盛、寺沢広高等、二条城に至り、家康に拝謁する。僧衆も二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 5月14日、大坂の町奉行、水原吉一、京都に潜伏するが発覚し、処刑されて首級を二条城西門に晒される。
  • 5月15日、公家衆、門跡、二条城に至り、家康に拝謁する。二条城において天台宗の論議あり。
  • 5月18日、秀忠、公家衆、門跡、大名等、二条城に至り、家康に拝謁する。二条城において因明の論議あり。
  • 5月19日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、8月まで滞在して、諸般のことを処置するように請う。家康、これを承諾する。
  • 5月21日、二条城において真言宗の論議あり。
  • 5月23日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、密議する。二条城において天台宗の論議あり。
  • 6月1日、公家衆、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 6月2日、秀忠、二条城に至る。二条城において天台宗の論議あり。
  • 6月4日、二条城において高野衆の論議あり。
  • 6月5日、島津家久、二条城に至り、家康に拝謁し、物を献じ、次いで秀忠に拝謁する。
  • 6月11日、二条城において因明の論議あり。
  • 6月15日、家康、参内する。
  • 6月16日、二条城において嘉定の儀あり。
  • 6月17日、二条城において天台宗の論議あり。
  • 6月20日、秀忠、二条城に至る。二条城において天台宗の論議あり。
  • 6月28日、秀忠、二条城に至る。
  • 6月29日、本阿弥又三郎、二条城に至り、秀頼の骨喰刀を家康に献じる。
  • 6月30日、家康、片山宗哲等に命じて僧雲叔が献上した書籍を「数寄屋の御書院」にて校合させる。
  • 閏6月1日、公家衆および僧侶、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 閏6月3日、宇和島城主・伊達秀宗、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 閏6月4日、細川忠興、二条城に至り、家康に拝謁する。次いで帰国する。
  • 閏6月6日、秀忠、二条城に至る。二条城において真言宗の論議あり。
  • 閏6月9日、家康、織田有楽斎を二条城に召して、大坂城中の茶器のことを問う。
  • 閏6月15日、松平忠輝、織田常真、梵舜、二条城に至り、家康に拝謁する。中井大和守正清、二条城に至り、法隆寺阿弥陀院の遺物を家康に披露する。秀忠、安藤重信を二条城に遣わす。
  • 閏6月16日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 閏6月17日、公家衆、門跡、諸大名等、二条城に至り、家康に拝謁する。家康、浄土宗の法文を聴く。
  • 閏6月23日、二条城において真言宗の論議あり。伊達政宗、二条城に至り、家康に定家自筆の古今和歌集を献じるが、家康は辞退する。
  • 閏6月25日、二条城において天台宗の論議あり。
  • 閏6月26日、二条城において真言宗の論議あり。喜連川頼氏、浅野長晟等、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 閏6月27日、秀忠、二条城に至り、舞楽を見る。公家衆、諸大名等も陪観する。
  • 7月1日、秀忠、二条城に至る。家康、二条城で能を催す。
  • 7月3日、二条城において真言宗の論議あり。豊国神社の社僧・梵舜、数寄屋路地に用いる松落葉30俵を二条城に贈る。
  • 7月4日、秀忠、水野忠元を二条城に遣わし、家康に鱸魚を献ずる。二条城において天台宗の論議あり。
  • 7月5日、二条城において幸若舞あり。
  • 7月6日、二条城において真言宗の論議あり。
  • 7月10日、土井利勝、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 7月11日、秀忠、二条城に至り、家康に拝謁し、関東下向の挨拶をする。
1615年(元和元年)
  • 7月17日、秀忠、二条城に入り、「泉水御座敷」で家康と拝謁し、「禁中並公家諸法度」を定める。二条城において能あり。
  • 7月19日、秀忠、伏見城から江戸城へ帰る。
  • 7月20日、29日、家康、二条城「御書院ノ西、御数寄屋ノ廊下ノ座敷(八畳敷か)」において中院通村等の源氏物語の講義を聴く。
  • 7月21日、家康、高台院、公家衆を招き、能を催す。
  • 7月26日、二条城において真言宗の論議あり。
  • 7月28日、梵舜、二条城に至り、増鏡三冊を家康に献じる。
  • 8月1日、親王、公家衆、門跡等、二条城において、八朔を賀し、家康の帰国にあたり挨拶する。南蛮人、二条城に至り、家康に拝謁する。
  • 8月2日、家康、大徳寺の僧・宗眼天叔等を二条城に召して仏法を聴く。
  • 8月4日、家康、二条城から駿府城に帰る。
1616年(元和2年)
  • 4月17日、家康、駿府城で死去。
1617年(元和3年)
  • 6月29日、秀忠、上洛して伏見城に入る。9月13日、伏見城から江戸城へ帰る(二条城は使用されず)。
1619年(元和5年)
  • 5月27日、秀忠、上洛して伏見城に入る。
  • 8月25日、毛利輝元、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
  • 9月18日、秀忠、二条城に至り、藤堂高虎・小堀政一を奉行に任じ、和子入内に備えた女御御殿の造営を命じる。即日、江戸へ向かう。
1620年(元和6年)
  • 2月21日、藤堂高虎、上洛して和子入内を斡旋する。
  • 4月22日、所司代・板倉重宗、関白・九条忠栄を訪ね、和子入内を詮議する。
  • 5月、女御御殿、付属屋完成。
  • 5月28日、徳川和子、上洛して二条城に入る(一時居住)。
  • 6月12日、関白・九条幸家等、二条城に至り、酒井忠世、土井利勝等と、和子入内を詮議する。
  • 6月18日、和子、二条城より後水尾天皇のもとへ入内する。
1623年(元和9年)
  • 6月8日、秀忠、上洛して二条城に入る。
  • 6月9日、昵懇の公家衆、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
  • 6月15日、勅使、院使、親王、公家衆、門跡等、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
  • 6月16日、二条城において嘉定の儀あり。
  • 6月25日、秀忠、参内する。
  • 7月1日、二条城の西長屋、崩壊する。
  • 7月6日、秀忠、大坂に赴く。
  • 7月13日、秀忠、大坂より二条城に帰る。家光、入京して伏見城に入る。
  • 7月15日、勅使、伏見城に至り、家光に拝謁する。家光、二条城に入り、秀忠に拝謁する。
  • 7月27日、家光、伏見城で将軍宣下を受ける。【この行事を最後に伏見城を廃する】
  • 8月6日、家光、将軍宣下の拝賀の礼をおこなうため、参内する。
  • 8月14日、家光、二条城において能を催す。
  • 8月16日、二条城において能を催す。
  • 閏8月1日、暹羅(シャム)国使節、二条城に至り、大広間にて秀忠に拝謁し、書簡と献上品を奉呈する。
  • 閏8月8日、家光、江戸へ帰るため、京を発する。
  • 閏8月21日、秀忠、二条城から江戸へ帰る。
  • 11月19日、和子、皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)を出産。
  • 家光、上洛の際に佐久間将監(真勝)に命じて、城内に御茶室を造営させる。
1624年(元和10年)
  • 1月、2月、幕府、名古屋城主・徳川義直以下、譜代大名18名(18藩)に命じて、二条城を修築する。
1624年(寛永元年)
  • 5月、家光、後水尾天皇行幸を仰ぐため、二条城拡張、殿舎整備ならびに行幸御殿造営に着手(1626年9月まで継続)。
  • 5月28日、家光、上野高崎城主・安藤重長を、秀忠、秋元泰朝を、ともに大坂に遣わして、二条城修築助役の諸大名の家士を慰労する。
  • 9月、家光、小堀政一らを作事奉行に任命。建築工事は1626年に入って完成。
  • この年、家光、来るべき二条城行幸のため、二条城天守、行幸御殿を造営し、また伏見城の破却を終了する。
1625年(寛永2年)
  • 4月2日、幕府、駿府城番・渡辺茂を二条城番(二条城在番)となす(二条城代の設置)。大御番衆30名を率い1年間勤務。
  • 5月21日、行幸御殿が完成。
  • 7月下旬、二の丸御殿がほぼ完成。
  • 行幸御殿の障壁画が狩野派一門により描かれる。
1626年(寛永3年)
  • 3月28日、幕府、二条城を修理する。武家伝奏権大納言三条西実条、同権中納言中院通村等、二条城を見物する。
  • 5月3日、鍋島勝重、二条城の庭園に植える蘇鉄を1本献納する。
  • 5月16日、幕府、二条城に行幸を仰ぐため、昵懇の公家衆等に装束料を給う。
  • 5月28日、秀忠、上洛のため江戸を発す。
  • 6月、門や櫓など付属する建物の工事も完成。
  • 6月20日、秀忠、入京して二条城に入る。
  • 6月23日、武家伝奏、二条城に至り、秀忠に拝謁する。公家衆、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
  • 6月28日、公家衆、諸大名等、二条城に至り、秀忠に拝謁する。
  • 7月3日、親王、公家衆、二条城に至り、秀忠の入京を賀す。
  • 7月12日、秀忠、参内する。家光、上洛のため江戸を発す。
  • 7月13日、秀忠、武家伝奏権大納言三条西実条、同権中納言中院通村、幕府年寄衆下総佐倉城主・土井利勝、同遠江横須賀城主・井上正就、同下総古河城主・永井尚政、所司代板倉重宗および金地院崇伝等を集め、二条城行幸の諸礼について議論させる。
  • 7月25日、秀忠、大坂に赴く。
  • 7月30日、秀忠、大坂より二条城に帰る。
  • 8月2日、家光、入京して二条城に入り、次いで淀城に居館する。
  • 8月11日、秀忠、参内する。
  • 8月14日、家光、淀城から二条城に入る。
  • 8月18日、家光、参内する。
  • 9月6日、後水尾天皇、中和門院と中宮和子を伴い、二条城に行幸。五日間の滞在。【寛永行幸】
  • 9月7日、舞楽御覧。
  • 9月8日、和歌、管弦の御遊あり。天皇、中宮、女院ら、天守を歴覧する。
  • 9月9日、猿楽御覧。
  • 9月10日、女院、午前に二条城より還幸。天皇、再度天守にのぼり還幸の宴後、二条城を発つ。
  • 9月13日、秀忠、家光、参内する。
  • 9月16日、17日、家光、大坂城に至り、普請を見る。翌日、二条城に帰る。
  • 9月25日、家光、江戸へ帰るため、京を発する。
  • 10月6日、秀忠、江戸へ帰るため、京を発する。
  • この年、狩野探幽ら、二条城障壁画を描く。
1627年(寛永4年)
  • 8月7日、幕府、二条城唐門を南禅寺に下す。金地院に移築。
  • 11月、仙洞御所造営についての法度が発せられる。
1628年(寛永5年)
  • 6月23日、幕府、青山幸成と安藤重長を京坂に遣わし、二条城当直等に関する覚書を授ける。
  • 行幸御殿、中宮御殿、四脚門、唐門などを仙洞御所(後水尾院御所)に移築する(1661年(万治4年)1月15日に焼失)。
1629年(寛永6年)
  • 【紫衣事件】
  • 11月8日、後水尾天皇が譲位。
1630年(寛永7年)
  • 9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。
1632年(寛永9年)
  • 1月24日、秀忠、江戸城で死去。
1633年(寛永10年)
  • 5月、在番の大番士30人に二百石ずつ加恩あり。
  • 7月、小堀遠州、二条城内に茶室造営開始(翌年6月完成)。
1634年(寛永11年)
  • 7月11日、家光、30万の兵とともに上洛して二条城に入る。
  • 7月12日、院使、勅使が二条城に至り、上洛を賀す。
  • 7月13日、院使、勅使が二条城に至り、歳首を賀す。門跡、公家等も拝謁する。
  • 7月14日、門跡、公家衆、二条城に至り、家光に拝謁する。
  • 7月15日、伝奏、諸大名、御三家、家光に拝謁する。院使、二条城に至り、家光に太政大臣昇進を薦めるが固辞する。
  • 7月16日、門跡、各宗派の僧侶、官工、官商、家光に拝謁する。
  • 7月17日、勅使、院使が二条城に至り、重ねて太政大臣昇進を薦めるが、家光は固辞する。徳川頼宣を召す。
  • 7月18日、家光、参内する。
  • 7月19日、御三家、諸大名、二条城に至り、参内を賀す。
  • 7月20日、細川三斎父子、天海はじめ僧侶等、二条城に至り、拝謁する。板倉周防守を仙洞に遣わし、万葉集を院に進ず。
  • 7月21日、二の丸で、摂家、親王、公卿、門跡、殿上人、国持諸大名等を招き、猿楽を催す。市人も陪観を許される。
  • 7月22日、医官、連歌師、および京坂、奈良、堺、伏見の市人、二条城に至り、献上品を奉る。
  • 7月23日、京の町年寄を各町よりふたりずつ、本丸二の丸間の白洲に集め、御上洛の御祝として銀12万枚下賜する。家光はこれを北の櫓から見物する。
  • 7月25日、西本願寺門跡等、家光に拝謁する。
  • 7月26日、東本願寺門跡等、家光に拝謁する。
  • 7月27日、九条前関白幸家、二条城に至り、匂袋を進ず。院使、二条城に至り、万葉集を謝す。
  • 7月28日、伝奏、昵懇の公家、諸大名、門跡、神宮、医師、商人等、拝謁する。
  • 7月29日、伝奏衆が召し出される。
  • 閏7月1日、伝奏、昵懇の公家、諸大名等、拝謁する。上皇、参議勧修寺経広を二条城に遣わし、家光に白蘭を賜う。
  • 閏7月2日、伝奏、一条摂政辞職を伝えるが許されず。
  • 閏7月3日、院使、二条城に至り、院料を謝す。
  • 閏7月4日、家光、仙洞御所に参内する。広所(二条城から移築した建物)で蹴鞠見物あり。
  • 閏7月5日、諸大名等、家光に院参を賀す。
  • 閏7月7日、天海、家光に拝謁する。
  • 閏7月9日、院より双六の盤が進ぜられる。中山王尚豊の使者、佐鋪、玉城、金武三王子、二の丸において家光に拝謁する。尚豊および三使から献上品あり。
  • 閏7月10日、二条康道父子が家光に拝謁する。公家衆、家光に拝謁する。
  • 閏7月13日、九条前関白幸家と庶子千代鶴丸、家光に拝謁する。
  • 閏7月14日、家光、譜代、親藩大名との謁見をおこなう。
  • 閏7月15日、家光、昵懇の公家、大名と二の丸で謁見する。御三家、譜代は小書院で謁見する。
  • 閏7月16日、家光、在洛の諸大名へ時服等を下賜する。諸大名、御礼に参上する。
  • 閏7月21日、勅使烏丸光広が家光に香袋を進上する。
  • 閏7月22日、蹴鞠観覧。御三家、諸大名、公卿等、観覧する。御三家、公卿は黒書院、国持大名は大広間、それ以下の大名は式台で饗応される。
  • 閏7月23日、24日、家光、二条城において一条昭良と内談する。
  • 閏7月25日、家光、大坂城に移る。途中、淀城で永井尚政が供奉する。
  • 閏7月28日、家光、二条城へ帰る。橋本より乗船。途中、長岡勝龍寺を参詣。
  • 閏7月29日、家光、御三家、在京の諸大名と謁見する。一条昭良と謁見する。
  • 8月1日、家光、御所および仙洞へ参内する。
  • 8月2日、一条昭良が参上。二の丸で御酒を進上。院より御簾と土佐絵の屏風を賜る。屏風を上段に立て、諸大名に拝覧させる。天海僧正と謁見する。
  • 8月3日、家光、一条昭良と内談する。
  • 8月4日、天海僧正参上。伝奏、公家ら参上。譜代大名に妻子を江戸に引移すよう申し渡す。
  • 8月5日、家光、二条城から江戸城に帰る。
  • 高知城主・山内忠義、二条城作事のため、材木を献上する。
1635年(寛永12年)
  • 5月23日、幕府、大番頭・保科正貞、同・安部信盛に、番士100名を率いて、同・渡辺茂に代わり、京都二条城を守衛させる。在番交替期を一年と定める。
  • 武家諸法度が改められ、参勤交代制度が確立される。
1637年(寛永14年)
  • 幕府、禁裏を造営する。
1638年(寛永15年)
  • 3月15日、幕府、大番頭・水野元綱、同・北条氏重に、二条城定番を命じる。
1639年(寛永16年)
  • 3月15日、幕府、大番頭・松平忠晴、同・松平直次に、二条城定番を命じる。
  • 7月12日、幕府、大番組頭・筧正成に、二条城在番を命じる。
1640年(寛永17年)
  • 3月7日、幕府、二条城番士に條令を下す。
  • 3月9日、幕府、内藤信廣、保科正貞に二条城番を命じる。
1644年(寛永21年)
  • 2月20日、幕府、大番頭・本多正貫、中根正成に、二条城番を命じる。
1651年(慶安4年)
  • 4月20日、家光、江戸城で死去。
1652年(承応元年)
  • この頃までに行幸諸施設の整理終わる。
1653年(承応2年)
  • 4月11日、二条城中で火災あり。
1656年(明暦2年)
  • 4月1日、幕府、二条城番士に條令を下す。
1660年(万治3年)
  • 7月6日、京都暴風雨により二条城損壊する。
  • 9月10日、幕府、膳所城主・本多俊次に命じて、二条城石塁を修繕する。
1662年(寛文2年)
  • 5月1日、寛文近江若狭地震により、二条城も被害を受ける。石垣や二の丸御殿に大きな被害。方広寺大仏は倒壊。
  • 5月28日、幕府、大垣城主・戸田氏信に命じて二条城を修理する。
1663年(寛文3年)
  • 9月14日、幕府、石清水社の修繕にあたり、二条城番士に監督させる。
  • 12月6日、京都地震、二条城も損壊する。
1665年(寛文5年)
  • 2月11日、幕府、大番隊士禄百石以下で二条城を守衛する者に、米各二百苞を給付する。
  • 5月12日、京都地震、二条城も損壊する。
1677年(延宝5年)
  • 城内外施設の破損修理(1680年まで)。
1686年(貞享3年)
  • 10月、二条城の破損部分の修理がおこなわれる(1713年3月に完了)。二の丸御殿の屋根はこの頃にはすでに本瓦葺きに。
1699年(元禄12年)
  • 二条城代を廃止し、職務は二条城在番(二条城番)が引き継ぐ。
1701年(元禄14年)
  • 6月20日、大雨と雷により二条城等で被害が出る。鴨川で洪水が発生する。
1703年(元禄16年)
  • 9月、京都所司代屋敷が拡張される。
1708年(宝永5年)
  • 3月8日、京都市中で火災発生、二条城までは延焼せず。【宝永の大火】
1716年(享保元年)
  • 二の丸庭園が改修される(この年から1730年までの間)。
1724年(享保9年)
  • 9月、将軍・徳川吉宗が上洛する噂が流れる。
1730年(享保15年)
  • 京都所司代・牧野英成、「二條御城中二之御丸/御庭蘇鉄有所之図」を制作させる。
1733年(享保18年)
  • 1月、再度吉宗上洛の噂が流れる。
1750年(寛延3年)
  • 8月26日、二条城天守、落雷により焼失する。
1752年(宝暦2年)
  • 4月13日、二条城引き渡しのため、老中・松平武元が上京。
1767年(明和4年)
  • 二条在番を廃止し、二条定番を設置する。
1772年(明和9年)
  • 3月13日、夜、二条城辺に光怪あり。
1788年(天明8年)
  • 1月30日、宮川町より出火、御所、二条城本丸御殿および北側の隅櫓(北東隅櫓、北西隅櫓)等が焼失する。【天明の大火】
  • 5月23日、老中・松平定信、二条城中および大徳寺ほか、洛中延焼の箇所を巡視する。
  • 8月8日、勘定奉行・根岸鎮衛等、仮御所および二条城その他の仮造営の竣工を賞し、物を賜る。
1830年(文政13年)
  • 7月2日、文政京都地震により、二条城も被害を受ける。黒書院、高麗門、太鼓櫓をはじめ、門、櫓、土居、天守台石垣などが破損。
1833年(天保4年)
  • 地震被害の修理がおこなわれる。
1847年(弘化4年)
  • 8月、御所内に桂宮邸が落成。
  • 9月1日、松平昭致、一橋徳川家を相続し徳川慶喜と名乗る。
1851年(嘉永4年)
  • この頃、二の丸庭園は滝も池も水が枯渇、灯籠や大石も半ば草に覆われて荒廃する。
1854年(嘉永7年)
  • 4月6日、女院御所内から出火、焼失町数は190余町、焼失家数は5400余となる火災発生。
1856年(安政3年)
  • 2月1日、所司代・脇坂安宅、幕府の命により、二条城に収蔵する鞍鐙類を調査する。
1858年(安政5年)
  • 2月18日、老中・堀田正睦、二条城を検分する。
  • 10月25日、家茂、江戸城において将軍宣下を受ける。
1859年(安政5年)
  • 12月9日、勅使・中山忠能、准后使・坊城俊克、二条城に至り、将軍宣下を賀す。
1860年(万延元年)
  • 閏3月15日、所司代・酒井忠義、二条城在番に、部下や雇用者の身元調査を命じる。
1862年(文久2年)
  • 2月11日、家茂、孝明天皇の妹、和宮と結婚。
  • 閏8月19日、二条在番が廃止され、二条定番が置かれる。
  • 9月16日、二条定番、京都町奉行らが二条城を見分し「孤狼之巣窟之様」と報告。
  • 9月、将軍後見職・徳川慶喜の「居室」が本丸内に建てられる。
  • 9月20日、幕府、松江藩主・松平定安に、将軍滞京の間の二条城警守を、篠山藩主・青山忠敏に同じく二条火之番を命じる。
  • 9月下旬〜10月上旬、翌年の家茂上洛に向けて二条城の修復工事がはじまる。
  • 10月16日、勘定吟味役改役・野口鎌五郎が二条城修復担当に命じられる。
1863年(文久3年)
  • 2月5日、本多康穣、二条城警衛の人員について建議する。
  • 2月13日、徳川家茂、上洛のため江戸を発す。徳川慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 2月14日、徳川慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 2月15日、徳川慶喜、松平慶永等を二条城に召し、浪士の処分について議論する。
  • 2月21日、徳川慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、本丸を見学する。
  • 2月24日、徳川慶喜、松平慶永、徳川慶勝、山内豊信、二条城に登城する。
  • 2月25日、徳川慶喜、松平慶永、徳川慶勝、黒田長溥、浅野茂長、二条城に登城する。
  • 2月26日、徳川慶喜、松平慶永、徳川慶勝、松平容保、山内豊信、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 2月27日、徳川慶喜、松平慶永、徳川慶勝、松平容保、山内豊信、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 2月29日、徳川慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 3月1日、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、二条城に登城する。
  • 3月2日、幕府、高槻藩主・永井直矢に将軍滞京時の二条城警備を命じる。徳川慶喜、松平慶永等、二条城に登城する。
  • 3月4日、家茂、入京して二条城に入る。徳川慶喜、松平慶永等が出迎える。家光以来230年ぶり。この頃、二の丸庭園は枯山水風な庭園景を呈する。
  • 3月5日、在京諸藩侯、二条城に至り、将軍の上洛を賀す。家茂、御多門の道具類を見学する。
  • 3月6日、徳川慶喜、松平慶永、松平容保、二条城に登城後、近衛邸へ。
  • 3月7日、家茂、参内する。徳川慶喜、松平慶永等も扈従(こしょう)する。
  • 3月8日、家茂、武器庫、天守台を見学する。徳川慶篤以下列侯25人、二条城に至り、将軍の参朝を賀す。本願寺光澤、二条城に使者を出す。
  • 3月9日、高松藩主・松平頼聰、二条城警衛の任に就く。松平慶永、政事総裁職辞職の内願書を提出する。伊達宗城、登城する。
  • 3月10日、勅使・坊城俊克、同・野宮定功、二条城に至り、刀を賜う。家茂加茂行幸を命じられる。黒書院において橋本実麗と面会する。
  • 3月11日、家茂、加茂行幸供奉。
  • 3月12日、徳川慶篤、蜂須賀斉裕、二条城に至り、老中と詮議する。
  • 3月13日、徳川慶篤、蜂須賀斉裕、二条城に至り、家茂に拝謁する。
  • 3月14日、15日、徳川慶篤、二条城に至り、詮議する。
  • 3月17日、徳川慶篤、二条城に至り、詮議する。徳川茂承、山内豊信、黒書院において家茂に拝謁する。将軍後見職・徳川慶喜、老中・水野忠精、同・板倉勝静、参内し、将軍の暇乞いをするが、滞京を命じられる。慶喜等、二条城に至り、京都守護職・松平容保を召して詮議する。
  • 3月20日、池田茂政、二条城に至り、黒書院において家茂に拝謁する。
  • 3月21日、徳川茂承、徳川慶篤等19人および布衣以上の諸有司、二条城に参集する。19日の勅書を披露する。
  • 3月22日、徳川慶篤、徳川茂承、伊達慶邦、上杉斉憲、細川慶順、池田茂政、浅野茂長、二条城に参集する。家茂、参内する。
  • 3月23日、伊達慶邦、上杉斉憲、細川慶順、池田茂政、浅野茂勲、久松勝成、松平頼聰、山内豊信、伊達宗城等、二条城に至り、内議し、次いで家茂に拝謁する。
  • 3月26日、伊達宗城、二条城に至り、家茂に拝謁する。上杉斉憲、細川慶順、松平頼聰、二条城に参集して詮議する。
  • 3月27日、参議・橋本実麗、二条城に至り、黒書院において家光に拝謁する。
  • 3月29日、伝奏・坊城俊克、野宮定功、議奏・三条実美、二条城に至り、家光に拝謁して詮議する。
  • 4月2日、家茂、徳川慶喜と会見する。
  • 4月3日、萩藩世子・毛利定広、二条城に至り、家光に拝謁し、摂海防備の親閲と対馬防衛の方策とを建言する。対馬藩主・宗義達も列席する。
  • 4月7日、家茂、黒書院において攘夷決行を宣言する。松平昭訓を二条城に召して、滞京中の労をねぎらう。
  • 4月11日、家茂、石清水八幡宮行幸に供奉せず。
  • 4月20日、家茂、毛利定広を二条城に召して、国事斡旋の労をねぎらう。
  • 4月21日、家茂、石清水八幡宮に参詣したのち、大坂城へ入る。
  • 4月22日、徳川慶喜、攘夷の勅諚を奉じて江戸に下る(5月8日、江戸到着)。
  • 5月7日、家茂、銅御門内調練場において銃隊訓練を見学する。
  • 5月11日、家茂、大坂城より二条城に入る。
  • 6月1日、家茂、宇土藩主・細川行真、萩藩支族・吉川経幹を二条城に召し、黒書院において面会する。
  • 6月2日、家茂、大広間下段において勅使より進物を賜う。
  • 6月4日、家茂、黒書院において宗義達つづいて橋本実麗と面会する。
  • 6月9日、家茂、二条城を発し、大坂城に入る。
  • 6月13日、家茂、江戸へ帰るため大坂城を発し、順動丸に乗船して紀州由良港にて泊まる。14日、由良港を出港。15日、遠州灘を通過。16日、江戸に到着。
  • 7月7日、二条城門に落書して、家茂を弾劾する者あり。
  • 8月18日、幕府、郡山藩主・柳沢保申、膳所藩主・本多康穣、篠山藩主・青山忠敏、高槻藩主・永井直矢に二条城の警備を命じる。【八月十八日の政変】
  • 8月25日、和歌山藩主・徳川茂承、入京して二条城に入る。
  • 10月26日、徳川慶喜、海路上京のため江戸を発す。
  • 11月12日、徳川慶喜、兵庫に到着する。
  • 11月26日、徳川慶喜、入京して東本願寺を宿舎とする。
  • 12月21日、徳川慶喜、東本願寺から若州屋敷(酒井若狭守忠義邸)に移る。
1864年(文久3年)
  • 12月8日、幕府、中村藩主・相馬充胤、松前藩主・松前崇広、大野藩主・土井利恒に、将軍上洛中の二条城の警守を命じる。
  • 12月25日、徳川慶喜、松平慶永、松平容保、黒田慶賛、長岡良之助、二条城に参集し、朝議参予に関し協議する。
1864年(文久4年)
  • 1月15日、徳川家茂、上洛して二条城に入る。
  • 1月16日、孝明天皇、勅使を二条城に遣わして板輿を賜う。
  • 1月18日、幕府、将軍滞京中、二条城に登る者に、旅装を用いるよう発令する。松平慶永、蜂須賀斉裕、山内豊信、伊達宗城、二条城に至り、家茂に拝謁して、公武一和に関し、進言する。
  • 1月19日、島津久光、松平慶永、伊達宗城に伴われ二条城に至り、はじめて家茂に拝謁する。家茂、久光等を黒書院で饗応する。
  • 1月20日、勅使・坊城俊克、同・野宮定功、二条城に至り、家茂に右大臣宣下の内旨を伝える。
  • 家茂、二条城において武家伝奏および昵懇の公卿等を饗応する。
  • 1月22日、家茂、在京の諸侯および有司を二条城に召し、右大臣昇任を告げ、饗応する。
  • 1月23日、家茂、黒田慶賛、長岡護久、同良之助を二条城に召し、饗応する。
  • 1月24日、勅使・坊城俊克、同・野宮定功、二条城に至り、歳首を賀す。家茂、白書院において謁見する。松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光、二条城に至り、松平直克および水野忠精と会し、時事を詮議す。翌日、慶喜、慶永、宗城等、また会議す。豊信および久光は欠席。
  • 2月2日、松平慶永、伊達宗城、島津久光、二条城に至り、徳川慶喜、松平直克および老中等と勅書「去月二十七日所賜」および将軍奉答書の布告、横浜鎖港および萩藩処分等に関し、会議する。久光、横浜鎖港に反対する。
  • 2月5日、松平慶永、伊達宗城、島津久光、二条城に参集し、徳川慶喜、松平直克および老中等と時事を協議する。
  • 2月7日、福井藩主・松平茂昭、二条城に至り、家茂に拝謁する。
  • 2月8日、徳川慶喜、松平慶永、伊達宗城、山内豊信、島津久光、二条城に至り、松平直克、酒井忠績、水野忠精、有馬道純と萩藩処分を詮議する。
  • 2月9日、長岡良之助、二条城に至り、松平直克および老中等に面会して、時事を論ず。
  • 2月15日、幕府、在京の諸侯を二条城に召集し、「正月二十七日」の宸翰(しんかん)および家茂の奉答書を示す。
  • 2月16日、幕府、参与諸侯に、用部屋に出入りして政務に参与するよう命じる。伊達宗城、島津久光、登城する。家茂、宴を催す。
  • 2月17日、孝明天皇、土山武宗を二条城に遣わして家茂に物を賜う。
  • 2月18日、権中納言・橋本実麗、二条城に至り、家茂の上洛を賀す。
  • 2月19日、松平慶永、二条城に至り、老中に面会し、速やかに国是を一定し、在京の諸侯を帰藩させるよう建言する。
1864年(元治元年)
  • 2月20日、家茂、在京の諸侯を二条城に召集し、「正月二十七日」の宸翰に対する奉答の趣旨を示し、各々の所見を述べさせる。
  • 2月26日、幕府、在京の諸侯を二条城に召集し、国是を諮問する。
  • 3月1日、幕府、二条城において朝廷尊崇のことを議論する。松平慶永、意見書を上申する。
  • 3月5日、幕府、二条城において萩藩の処分を詮議し、同藩末家、家老等を大坂に召喚するに決し、朝裁を請う。
  • 3月12日、伊達宗城、島津久光、長岡護久、同良之助、二条城に至り、徳川慶喜、松平直克および老中等と会し、諸藩士の諸公卿邸出入取締および萩藩の下関における外艦砲撃の阻止等を詮議する。
  • 3月13日、在京の諸侯、二条城に至り、家茂の官位昇進を賀す。
  • 3月14日、勅使・坊城俊克、同・飛鳥井雅典、同・野宮定功、二条城に至り、物を家茂および和宮ならびに天璋院に賜う。
  • 3月15日、幕府、伊予松山藩主・久松勝成に二条城警守を命じる。
  • 3月24日、長岡護久、帰藩のため、二条城に至り、家茂に拝謁し、刀を賜る。
  • 3月25日、徳川慶喜、禁裏御守衛総督ならびに摂海防御指揮となり、将軍後見職を解かれる。
  • 4月2日、蜂須賀斉裕、黒田慶賛、二条城に至り、家茂に拝謁し、帰藩を告ぐ。家茂、その滞京中の勤労を賞し、とくに斉裕に銃印を、慶賛に刀を賜う。
  • 4月10日、松平慶永、伊達宗城、長岡良之助、二条城に至り、暇を告ぐ。家茂、刀を賜う。
  • 4月18日、幕府、在京中の館林藩主・秋元志朝に、日光山警守のため急遽帰藩を命じ、二条城南猪熊口警守を解き、秋月藩主・黒田長徳にこれを命じる。
  • 5月1日、海陸備向掛手附雇・佐久間修理、二条城に至り、家茂に拝謁する。
  • 5月4日、勅使・坊城俊克、飛鳥井雅典、野宮定功、二条城に至り、家茂帰府参内の礼に応える。
  • 5月7日、家茂、二条城を発し、伏見より水路大坂城に入る(16日、大坂を発し、20日、江戸到着)。幕府、家茂の退京により、中村藩主・相馬充胤に二条城警守を免ず。
  • 7月19日、禁門の変。
  • 8月2日、第一次長州征伐の開始。
  • 12月、幕府軍、第一次長州征伐撤兵。
  • 禁裏守衛総督・徳川慶喜、江戸より消火夫を召致し、御所および二条城近辺の防火にあたらせる。
1865年(慶応元年)
  • 4月7日、慶応と改元。
  • 5月6日、幕府、将軍の上洛により、二条城を修繕する。
  • 5月18日、幕府、二条城に蔵する銅器類から大砲を鋳造し、久世河原で試射をおこなう。
  • 閏5月22日、家茂、上洛して二条城に入る。
  • 閏5月24日、家茂、二条城を発し、伏見奉行役宅に泊まる。翌日、大坂城に入る。
  • 9月12日、農孫右衛門(越後国魚沼郡十日町住)物価騰貴、庶民難渋により、外国貿易の停止を嘆願するため、二条城門外に至り自訴を企てる。
  • 9月15日、家茂、征長勅許奏請のため、大坂城を発して上京の途につき、翌日、二条城に入る。
  • 9月21日、家茂、禁裏守衛総督・徳川慶喜、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬、老中・阿部正外等を従え参内し、征長の勅許を奏上しこれを受ける。天盃、剣ならびに陣羽織を賜う。
  • 9月23日、家茂、大坂城へ帰る。
  • 10月3日、家茂、大坂を発する。徳川慶喜、松平容保、松平定敬、家茂を伏見に迎え、江戸帰還を止める。
  • 10月4日、家茂、二条城に入る。
  • 10月5日、伝奏・野宮定功、二条城に至り、将軍職辞退抑留の勅命を伝達する。
  • 10月7日、松平容保、二条城に至り、家茂に拝謁する。
  • 10月8日、幕府、在京諸侯および麾下の士を二条城に召し、条約勅許の勅書および将軍辞職却下の請書等を示す。
  • 10月14日、京都夷川辺に、二条城近辺に事変が発生する恐れがあり、あらかじめ付近居住の老幼病者等は立退くべしとする貼紙がある。
  • 10月27日、幕府、広島藩家老・野村帯刀を二条城に召し、大目付・永井尚志、目付・戸川忠愛、同・松野孫八郎を広島に派遣し、萩藩主・毛利敬親父子伏罪に関し訊問させるため、同藩末家、家老および奇兵隊首脳者に11月までに広島に至るべきことを、敬親に伝致させる。
  • 11月1日、水戸藩主・徳川慶篤弟、松平昭武、二条城に至り、家茂に拝謁する。
  • 11月3日、家茂、二条城を発し、大坂城に入る。
1866年(慶応2年)
  • 1月21日、薩長同盟成立。
  • 2月7日、幕府、京都に文武場を開き、禁裏付、一橋家士および所司代、二条城番、京都町奉行等付属の与力、同心、別手組、見廻組士等に講習する。
  • 6月7日、第二次長州征伐の開始。
  • 7月20日、家茂、大坂城で死去。
  • 8月20日、幕府、家茂の死去発表。徳川慶喜、徳川宗家を相続し、軍制改革に着手する。
  • 9月16日、幕府、二条城定番を廃す。
  • 11月1日、在京の諸侯および有司、二条城に至り、徳川慶喜に拝謁し、宗家継承を賀す。在府の者、登城し、老中に拝謁して慶賀する。越前勝山藩主・小笠原長守、水口藩主・加藤明実、二条城に至る。
1867年(慶応2年)
  • 12月5日、慶喜、将軍就任。
  • 12月25日、孝明天皇、崩御。
1867年(慶応3年)
  • 1月11日、在京諸侯および麾下の士、二条城に至り、将軍践祚(せんそ)を賀す。
  • 2月5日、慶喜、京を発し、大坂城へ入る。
  • 3月9日、慶喜、二条城において将軍宣下官位昇進の賀を受ける。
  • 5月1日、慶喜、二条城に松平慶永、伊達宗城、島津久光を召す。久光、辞去し、慶永らは病と称して登城せず。
  • 7月10日、松平慶永、二条城に至る。慶喜、慶永の帰藩について慰論してその翻意を求め、また前佐賀藩主・鍋島斉正の意見を徴し、萩藩の処分を決行すべき旨を告げる。
  • 7月19日、鍋島斉正、二条城に至り、慶喜に拝謁し、時事に関し、諮問に答える。
  • 8月4日、松平慶永、帰藩のため、二条城に至り、慶喜に拝謁する。慶喜、上京以来の勤労を慰め、仏国製馬具および時計を賜う。
  • 8月16日、伊達宗城、帰藩のため、二条城に至り、慶喜に拝謁する。慶喜、勤労を慰め、物を賜う。
  • 9月21日、慶喜、内大臣に任じられ、二条城に移る。
  • 10月11日、幕府、大政奉還に先立ち、諸藩に13日の登城を命じる。
  • 10月12日、慶喜、松平容保、松平定敬ら在京有司を二条城に召見し、大政奉還の意思を伝える。
  • 10月13日、二条城大広間に在京十万石以上の諸藩重臣を召集し、老中より大政奉還決意書を示して諮問し、かつその藩主の上京を命じる。鹿児島藩士・小松帯刀、高知藩士・後藤象二郎、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵、とくに慶喜に拝謁して、ただちに奏請せんことを勧説する。
  • 10月14日、大政奉還上表(15日、勅許)。
  • 10月16日、幕府、在京十万石以上の諸藩重臣、旗本を二条城に召し、大政奉還勅許を示達する。
  • 10月17日、幕府、在京十万石以下の諸藩重臣を二条城に召し、各藩主の早々の上京を命じる。
  • 10月24日、慶喜、将軍職を辞す。
  • 10月27日、幕府、在京諸藩の重臣を二条城に召し、征夷大将軍・徳川慶喜の辞表およびそれに対する朝命を布達する。
  • 11月10日、松平慶永、二条城に至り、慶喜に拝謁し、大政奉還の事情説明を受ける。
  • 11月12日、大聖寺藩主・前田利鬯、龍野藩主・脇坂安斐、二条城に至る。
  • 11月20日、松平慶永、二条城に至り、慶喜に拝謁する。慶喜、大政奉還の趣旨を説明する。
  • 11月23日、徳川慶勝、二条城に至り、慶喜に拝謁する。
  • 11月28日、松平慶永、鹿児島藩士・大久保一蔵、会津藩士・手代木直右衛門を招き、時局に関する各藩議を訊す。慶永、二条城に至り、老中・板倉勝静に、一蔵等の所論を告げ、慶喜に一蔵および鹿児島藩士・西郷吉之助等を説論するよう勧告する。
  • 12月4日、久松定昭、二条城に至り、慶喜に拝謁する。
  • 12月5日、松平慶永、二条城に至り、慶喜に拝謁し、萩藩処置に関して会津藩がみだりに朝廷に意見することに反対する。慶喜、これを容れ、会津藩主・松平容保を戒める。高知藩士・後藤象二郎、松平慶永を訪ね、王政復古の企てがあることを告げ、山内豊信の入京までこれを延引させるよう斡旋を請う。翌日、慶永、藩士・中根雪江を二条城に遣わし、事情を慶喜に上陳する。
  • 12月6日、弾正尹・朝彦親王、常陸太守・晃親王、摂政・二条斉敬。左大臣・九条道孝、右大臣・大炊御門家信、前関白・近衛忠煕、前左大臣・近衛忠房、前右大臣・鷹司輔煕、内大臣・広幡忠礼以下議奏、伝奏等、斉敬邸に参集し萩藩処置を詮議する。斉敬、戸田忠至を通じて、二条城にある慶喜の意見を問い合わせる。慶喜、諸侯の衆議に従い、またもし天皇の裁断があれば異議ない旨答申する。徳川慶勝、二条城に至り、慶喜に拝謁し、萩藩を寛大に処し、内戦を防ぐよう建議する。
1868年(慶応3年)
  • 12月9日、旧幕府麾下の諸隊および会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬等、兵を率いて二条城に参集し、王政復古の大変革を鹿児島藩の私意に出るものとし、城内騒擾(そうじょう)する。朝廷、慶喜に命じ、萩藩主・毛利敬親等赦宥(しゃゆう)を理由に争議を起こす者を戒めさせる。また徳川慶勝、松平慶永に命じて、これを鎮撫させる。慶勝、慶永、家士、茜部小五郎、田中国之輔、毛受鹿之助を二条城に遣わし、老中・板倉勝静に騒擾を収めさせる。【王政復古の大号令】
  • 12月10日、議定・徳川慶勝、同・松平慶永、二条城に至り、慶喜に朝旨としての辞官納地(官位の剥奪と領地の没収)を伝える。城内は兵馬が参集し騒然とする。慶喜、返答は部下が鎮静するまで猶予を求める。旧幕府、高松、小浜二藩の兵に、二条城外弾薬庫を警守させる(12日に高松藩兵の警守を解く)。
  • 12月11日、旧幕府若年寄・大河内正質、若年寄並兼陸軍奉行・竹中重固等、二条城に麾下の士および会津、桑名二藩の重臣を召集し、鹿児島藩討伐の策を議すが、決せず。薩摩兵が来襲するという流言あり、参集した一万もの兵は迎戦の準備をはじめる者もあり。
  • 12月12日、議定・徳川慶勝、同・松平慶永、慶喜に、麾下の士たちを鎮めるために、下坂を勧める。同夜、慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、老中・板倉勝静等とともに二条城を出て、大坂城へ入る。旧幕府方の会津、桑名諸般の兵も随う。二条城の留守と鎮静は、水戸藩家老・大場一真斎ら、若年寄格・永井尚志等に命じられる。
1868年(慶応4年)
  • 1月3日、鳥羽・伏見の戦い、開戦。
  • 1月5日、新政府、徳川慶勝に命じて二条城を収管(接収)させる。城内の残兵を大坂へ送る。
  • 1月6日、名古屋藩家老・成瀬正肥、旧幕府目付・梅沢孫太郎より城を受ける。
  • 1月27日、太政官代(現在の内閣にあたる)を九条道孝邸より二条城に移す。学習院金穀出納所、会計事務裁判所を二条城内に設ける。
  • 2月3日、明治天皇、太政官代「二条城」に行幸。白書院において親征の勅を発する。
  • 2月4日、臼杵藩主・稲葉久通、三日月藩主・森利滋に命じて、二条城の柵門を警守させる。
  • 2月6日、飫肥藩主・伊藤祐相に二条城柵門警守を命じる。
  • 3月9日、明治天皇、太政官代「二条城」に再び行幸。宴席が設けられる。
  • 3月10日、秋月藩主・黒田長徳に、太政官代「二条城」の柵門を警守させる。
  • 3月13日、高島藩兵に二条城柵門警守を命じる。
  • 3月23日、西条藩主・松平頼英に命じて、二条城の柵門を守衛させる。
  • 4月11日、江戸城無血開城。慶喜、水戸へ向かう。
  • 4月15日、慶喜、水戸に到着。弘道館で謹慎。
  • 4月29日、名古屋藩兵の太政官代警守を解き、丸岡、岡田二藩兵に替える。また、名古屋、岡、飫肥、臼杵、秋月、高島、西条七藩兵の二条城柵門警守および高須藩兵の京都市中取締を解き、足守藩兵に市街を巡警させる(岡田藩兵は閏4月2日に任を解き、飫肥藩兵に替える)。田安亀之助、徳川宗家を相続して、徳川家達と名乗る。
  • 閏4月2日、安芸、臼杵、高島、西条四藩の二条城柵門の警守を解く。
  • 閏4月17日、二条城本丸に仮皇居(仮御所)を、二の丸に太政官代を建設する計画が出る(造営計画は実施されず)。
  • 閏4月21日、仮皇居造営工事のため太政官代を御所に移す。
  • 閏4月29日、飫肥藩兵の二条城唐門守衛および和歌山、盛岡、松代、島原、久居、丸亀、臼杵、足守、高松九藩兵の京都市中巡邏を解く。
  • 5月14日、丸岡藩の二条城北門および西門の警守を解く。
  • 5月24日、徳川家、駿河遠江70万石を賜う。
  • 7月6日、高知藩家老・毛利恭助、下村銈太郎、在京の藩兵が寡少であることから、二条城の守衛を解かれることを求め、請けいれられる。
  • 7月19日、慶喜、水戸から駿府に移り、宝台院において謹慎を続ける。
1868年(明治元年)
  • 9月8日、慶応から明治と改元。
  • 10月13日、天皇、江戸城に入り、東京城と改称、皇居とする。
1869年(明治2年)
  • 5月18日、箱館戦争終結。
1870年(明治3年)
  • 3月22日、二条城、留守官の管轄となる。
1871年(明治4年)
  • 3月8日、二条城、京都府の管轄となる。
  • 4月2日、京都府への引き継ぎ完了。
  • 6月26日、京都府庁を二条城内に移す(明治18年に現在地に移転)。
1872年(明治5年)
  • 6月3日、明治天皇、京都府庁(元二条城内)に行幸する。
1873年(明治6年)
  • 2月、二条城、陸軍省の管轄となる。京都府庁は継続設置。
1877年(明治10年)
  • 1月31日、明治天皇、京都府庁(元二条城内)に行幸する。
1878年(明治11年)
  • この頃、二の丸地区の樹木数211本、竹468本。
1884年(明治17年)
  • 7月28日、二条城、宮内省の管轄となり、二条離宮となる。
1885年(明治18年)
  • 5月16日、二条城郭外番場地5町9反6畝5歩余を二条離宮地内に編入する。
  • 明治修理が開始される(1887年完成)。
1886年(明治19年)
  • この頃より、土手周囲の城塀の取り除きがおこなわれ、庭園整備のための樹木が購入される。
1887年(明治20年)
  • 1月29日、明治天皇、二条離宮(元二条城)に行幸する。
1890年(明治23年)
  • 4月27日、昭憲皇太后、二条離宮(元二条城)に行啓する。
  • 11月27日、二条離宮、世伝御料(せでんごりょう)に指定される。
  • 11月、大規模な植栽工事がおこなわれ、二の丸庭園が整備される(翌年5月まで)。
1893年(明治26年)
  • 京都御所より旧桂宮御殿を二条城本丸に移築する工事着工。
1894年(明治27年)
  • 旧桂宮御殿の本丸への移築工事竣工。本丸庭園造成。
1895年(明治28年)
  • 5月23日、明治天皇、二条離宮(元二条城)に行幸する。旧桂宮御殿を「呈寿」と命名する。
  • 5月27日、皇后、二条離宮(元二条城)に行啓する。
1896年(明治29年)
  • 本丸内の枯山水風庭園(空泉水庭園)を改作し、芝生を主体とした築山風庭園が完成。
1897年(明治30年)
  • 6月、宮内省、二の丸庭園池底に玉石を敷く模様替え工事をおこなう(9月まで)。
  • 二の丸御殿の破風金具、入側小屋、廊下廻りの壁・格天井の張付絵を新装する。
1902年(明治35年)
  • 7月13日、慶喜、孝明天皇陵参拝のため京都に上京する。
  • 7月19日、慶喜、上京して京都十七日会主催の歓迎会に出席。
1910年(明治43年)
  • 12月8日、慶喜、家督を七男・慶久に譲り隠居する。
1912年(明治45年)
  • 明治天皇、崩御。
1912年(大正元年)
  • この頃から、大正天皇大礼の準備にあたり、京都御苑、桂離宮、修学院離宮とともに二条離宮などの整備工事がおこなわれる。二条離宮では大饗宴の儀のため二の丸御殿南北が増改築、大改造される。
1913年(大正2年)
  • 3月29日〜4月3日、裕仁皇太子、御滞泊。
  • 11月22日、慶喜死去、旭日桐花大綬章を受ける。
  • 11月30日、慶喜、谷中墓地に葬られる。
1914年(大正3年)
  • 3月18日、26日、27日、7月4日、5日、裕仁皇太子、御滞泊。
1915年(大正4年)
  • 4月16日〜21日、11月8日〜11日、裕仁皇太子、御滞泊。
  • 大正大礼饗宴の儀のため、二の丸南庭が玄関口として改修される。南門ができる。
  • 11月10日、大正天皇即位の大典。二の丸北部に大饗宴場がつくられる。
  • 11月16日、17日、饗宴の儀がおこなわれる。
1916年(大正5年)
  • 大礼諸施設が移築、取り壊され、復旧工事がおこなわれる。
  • 12月11日〜13日、裕仁皇太子、御滞泊。
1919年(大正8年)
  • 5月22日〜24日、裕仁皇太子、御滞泊。
1920年(大正9年)
  • 3月23日、11月4日、裕仁皇太子、御滞泊。
1921年(大正10年)
  • 2月23日、24日、裕仁皇太子、御滞泊。
1928年(昭和3年)
  • 9月頃、大礼を記念して、二の丸庭園滝の揚水ポンプ工事がおこなわれ、本格的に池に水をたたえる。
1930年(昭和5年)
  • 溜櫓および二階建ての渡り廊下が解体される。
1934年(昭和9年)
  • 室戸台風により、城内の樹木に大きな被害が出る。二の丸庭園の被害はわずかにとどまる。
1939年(昭和14年)
  • 10月25日、二条離宮(元二条城)、離宮を解除され、京都市に下賜される。
  • 10月28日、二の丸御殿その他の建物が国宝に指定される。
1940年(昭和15年)
  • 清流園地区に休憩所、便所設置、本丸西北隅および南中仕切門東側などに便所設置。
  • 2月11日、恩賜元離宮二条城として一般公開が開始される。
1945年(昭和20年)
  • 4月頃より、戦況緊迫のため、障壁画、彫刻、飾り金具などが取り外され、分散疎開させられる。
  • 終戦により、疎開物の返納が終わり、復旧作業がおこなわれる(翌年まで継続)。
1949年(昭和24年)
  • 昭和修理が開始される(1975年完成)
1952年(昭和27年)
  • 3月29日、文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が新国宝に、本丸御殿や隅櫓など22棟の建物が重要文化財に指定される。
1953年(昭和28年)
  • 3月31日、二の丸庭園が特別名勝に指定される。
1962年(昭和37年)
  • 無料休憩所を設置。
1965年(昭和40年)
  • 4月、本丸御殿の保存修理工事開始。
  • 京都市の迎賓施設として、清流園造成(角倉了以の邸宅の庭石等を使用)
1968年(昭和43年)
  • 管理事務所改築、西橋西側に便所設置(本丸西北隅便所撤去)。
1969年(昭和44年)
  • 3月17日、城外東側に有料駐車場設置(昭和27、28年頃まで飛行場、のち昭和44年まで無料駐車場)。
1970年(昭和45年)
  • 年間入城者数が200万人をこえる(統計は年度締め)。
1974年(昭和49年)
  • 9月12日、広域避難場所に指定される。
1982年(昭和57年)
  • 6月5日、狩野派による二の丸御殿内の障壁画954面(附62面)が重要文化財に指定される。
1983年(昭和58年)
  • 収蔵庫復元、模写室として利用され現在に至る(模写事業は1972年より番所にて開始)。
1987年(昭和62年)
  • 緑の園に便所増設。
1988年(昭和63年)
  • 外堀南に便所増設。
1990年(平成2年)
  • 西橋西側に休憩所増設。
  • 本丸御殿の保存修理工事が完成。
1994年(平成6年)
  • 12月26日、京都の16寺院とともに世界文化遺産に登録される。
2003年(平成15年)
  • 築城400年祭が開催される。
2004年(平成16年)
  • 3月、「築城400年記念 展示・収蔵館」の工事が竣工
2005年(平成17年)
  • 10月10日、「築城400年記念 展示・収蔵館」が開館。
2006年(平成18年)
  • 4月6日、日本城郭協会により「日本100名城」(53番)に選定される。
2013年(平成25年)
  • 8月、唐門の飾り金具にある菊紋の下に葵の紋があったことが判明した。
2014年(平成26年)
  • 9月、東大手門の修復工事、着工。
2015年(平成27年)
  • 12月、番所の修復工事、着工。
2017年(平成29年)
  • 3月、東大手門の修復工事が完成。
  • 6月、番所の修復工事が完成。
  • 8月、本丸御殿の修復工事、着工(2022年までの予定)。
   

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