二条城
13 二条城

[京都府][山城] 京都府京都市中京区二条城町541


  • 平均評価:★★★★☆ 3.74(39位)
  • 見学時間:1時間30分(60位)
  • 攻城人数:1828(7位)

二条城の歴史

二条城は「関ケ原の戦い」の翌年に天下普請で築かれてから、現在に至るまで長い歴史を刻んできました。400年以上にわたるその歴史についてまとめます。

築城当時の二条城(慶長期二条城)

初代二条城は徳川家康の上洛時の宿所として1601年(慶長6年)5月に築城が開始されました。造営総奉行は京都所司代に就任した板倉勝重が、作事(建築)の大工棟梁は中井正清がつとめました。
2年後の1603年(慶長8年)3月に竣工しましたが、天守は1606年(慶長11年)に完成しています。この天守は大和郡山城からの移築で、位置も現在の天守台ではなく、御殿の北西の場所にありました。

慶長期二条城復元図[二条城]
提供:香川元太郎、初出=『歴史群像2010年4月号』(学研) | 慶長期二条城復元図[二条城]

なお当初の城域は現在の二の丸部分のみで、幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだそうです。

現在の二条城は3代将軍・徳川家光後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修をおこなったものですが、改修前の二条城もさまざまな歴史の舞台となりました。

まず征夷大将軍となった家康が二条城から拝賀の礼のために御所に参内しています。この慣習は秀忠、家光の代までつづけられました。
なお家康は諸大名とは伏見城で対面し、朝廷や公家などと応対する場として二条城を使っています。

また1611年(慶長16年)に家康が豊臣秀頼と会見をおこなったのも二条城です。会見は「御成の間」でおこなわれましたが、のちの家光による改修で現存していません。
1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と翌年の「夏の陣」では幕府本営として家康の本陣が置かれています(秀忠は伏見城から出陣)。
余談ですが、夏の陣の際は古田織部(古田重然)の重臣である木村宗喜が豊臣氏に内通して二条城への放火を企んだ嫌疑をかけられ、板倉勝重に捕らえられています。重然は大坂城の落城後に切腹しています。

そして1620年(元和6年)、公武合体を実現するために後水尾天皇の後宮に入内した、秀忠の娘である和子の入内行列も二条城からはじまっています。
(徳川和子はもともと「かずこ」と読んでいましたが濁音を忌み嫌う宮中の慣習にしたがい「まさこ」と変えています)

1623年(元和9年)には和子の3歳上の兄である家光が将軍に就任し、そのことを受けて後水尾天皇の行幸が決まり、改修工事がはじまりました。

なぜ家康はこの位置に城を築いたのか

さまざまな理由が考えられますが、当時の南北のメインストリートである堀川通、東西のメインストリートである二条通(二条大路)が交わる位置であったこと、御所に近いこと、そして桓武天皇が造った平安京の禁苑(宮中の庭園)「神泉苑」の跡地であったことが挙げられます。

家光による大改修と寛永行幸

1623年(元和9年)に3代将軍に就任した徳川家光は、小堀政一五味豊直を作事奉行として二条城の大改修をおこないました。天下人の城への行幸は後陽成天皇聚楽第に行幸して以来、40年ぶりとなります。
ちなみに「行幸」とは、天皇が御所を出て、よそへ訪問することで、天皇の訪問が幸福をもたらす儒教的観念から「幸」の字が使われています。

二条城行幸図(右隻)[二条城]
提供:海の見える杜美術館 | 二条城行幸図(右隻)[二条城]
二条城行幸図(左隻)[二条城]
提供:海の見える杜美術館 | 二条城行幸図(左隻)[二条城]

家光は城域を大幅に拡張して本丸と二の丸の輪郭式縄張りとして、天守もあらたに(一国一城令で廃城となった)伏見城から移築しています(天守は新築説もあり)。
この天守は天皇がのぼった唯一の天守でもあり、後水尾天皇は5日間の行幸の間に二度のぼり、「今が弥勒の世なるべし」と感嘆したと伝わっています。

寛永期二条城復元図[二条城]
提供:香川元太郎 | 寛永期二条城復元図[二条城]

また現在の二の丸庭園の位置に天皇が滞在するための行幸御殿が築かれました。
この行幸御殿を後水尾天皇が気に入ったため、譲位して上皇となった1627年(寛永4年)、京都新城跡に造営された仙洞御所に多くの建物が移築されましたが、のちに火災で焼失しています。

なお行幸御殿にあった唐門はもとは伏見城のものだと伝わっており、1627年(寛永4年)の解体時に以心崇伝が譲り受けて南禅寺金地院に移築、さらに豊国神社の唐門として移築されています。
この唐門は西本願寺唐門・大徳寺唐門と並んで、桃山の三唐門のひとつです(いずれも国宝)。

その後の二条城

その後、秀忠が死去したのちに家光が上洛のために二条城に入城したのを最期に、幕末に家茂が上洛するまで約230年にわたり、二条城は表舞台から消え、荒れていました。
1750年(寛延3年)に天守が、1788年(天明8年)には本丸御殿が焼失しましたが再建されることはなく、幕府は二条城を管理するための役職(二条在番)を設けましたが、将軍不在の二条城が幕府の政庁として使われることはありませんでした。

幕末、大政奉還

1863年(文久3年)、皇女和宮の降嫁(こうか)に謝辞を述べ、攘夷決行の策を上奏する名目で14代将軍の徳川家茂が上洛し、その際は二条城から参内しています。
この上洛の準備として、前年から改修工事がおこなわれ、二の丸御殿は全面的に修復されました。
さらに1865年(慶応元年)にも家茂は再度上洛して二条城に入っていますが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るために大坂城へ移ると、そのまま病に倒れ、翌年死去しています。

1866年(慶応2年)に将軍に就任した徳川慶喜は将軍として在位した一年一ヶ月余りを二条城で過ごしています。そして歴史に残る「大政奉還」を宣言する舞台となりました。その舞台となった二の丸御殿・大広間はいまも当時のまま残っています。
しかし政権と将軍職を返上するだけでは事態は収まらず、1868年(明治元年)2月3日には明治天皇が行幸され、二の丸御殿・白書院で幕府討伐の詔を発します。この結果、徳川将軍家は逆賊となり、薩長を中心とする倒幕軍は江戸へと向かいます。

二条城は若年寄・永井尚志に代わり、水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役をつとめていましたが、新政府軍に接収されました。

明治以降

時代が明治に変わると、二の丸御殿は京都府庁舎として使用されました。二の丸御殿・蘇鉄の間には当時の職員が試し捺ししたと思われる「京都府」の焼印の跡があります。
さらに陸軍省の所管に移されたのち、1884年(明治17年)には宮内省の所管となり「二条離宮」と改称しました。

いわゆる「二条城」の歴史はここで終わることになります。
現在、二条城は城内全体が国の史跡に指定されていますが、正式な登録名は「旧二条離宮(二条城)」です。

なお、1885年(明治18年)から明治25年(1892年)まで二の丸御殿の修理がおこなわれています。また1893年(明治26年)から翌年にかけて、御所北東部にあった旧桂宮邸を本丸へ移築しました。これが現在の本丸御殿です。

その後、1915年(大正4年)には大正天皇の即位の際に開かれた祝賀会の会場として使用されました。このときに南門がつくられています。

そしてヨーロッパで第二次世界大戦が勃発する1939年(昭和14年)に宮内省から京都市に下賜され、以降「元離宮二条城」という名称となり、翌年から一般公開されました。
しかし第二次世界大戦後には、GHQの意向で二の丸北側(現在の清流園のあたり)にテニスコートがつくられたり、東大手門前の堀川通は滑走路として使用されたりと、二条城も戦争や占領軍の影響を受けています。

近年では、1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されました。

二条城の歴史・沿革

西暦(和暦) 出来事
1601年(慶長6年)徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年)二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年)城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年)天守が完成する。
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見する。
1614年(慶長19年)大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。
1620年(元和6年)2代秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として二条城より入内する。
1624年(寛永元年)3代家光が行幸に向けて城の拡張、殿舎の整備に着手する。
1625年(寛永2年)二条城を守衛する役として二条城代を設置。渡辺山城守が初代。
1626年(寛永3年)本丸、二の丸、天守の増改築が完了する。9月に後水尾天皇が中宮和子とともに行幸(5日間)。
1634年(寛永11年)家光が30万人と称する大軍を率いて上洛し、入城する。
1662年(寛文2年)大地震のため、城内各所が被害を受ける。
1699年(元禄12年)二条城代を廃止して、職務は二条城在番が引き継ぐ。
1750年(寛延3年)8月、落雷により天守が焼失する。
1767年(明和4年)二条在番を廃止して、二条城番を設置する。
1788年(天明8年)1月、市中の大火により本丸御殿、櫓、西門などが焼失する(天明の大火)。
1863年(文久3年)14代家茂が入城する。
1866年(慶応2年)城内において慶喜が将軍宣下を受け、15代将軍に就任する。
1867年(慶応3年)10月、二の丸御殿大広間に在京諸藩の重臣を集め、慶喜が大政奉還を宣言する。徳川幕府の終焉。
1868年(明治元年)1月、城内に太政官代が置かれる(現在の内閣にあたる)。
1871年(明治4年)京都府庁舎となり、二の丸御殿内に府庁が置かれる(のち一時陸軍省になる)。
1884年(明治17年)7月、宮内省所管となり「二条離宮」となる。
1893年(明治26年)旧桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。移築工事は翌年完了。あわせて本丸庭園を造成。
1915年(大正4年)大正天皇即位の大典がおこなわれる。南門ができる。
1939年(昭和14年)宮内省が二条離宮を京都市に下賜。
1940年(昭和15年)2月11日、「恩賜元離宮二条城」として一般公開をはじめる。
1952年(昭和27年)文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、本丸御殿や隅櫓など22棟の建物が重要文化財指定に指定される。
1953年(昭和28年)二の丸庭園が特別名勝に指定される。
1965年(昭和40年)清流園が造成される。
1982年(昭和57年)狩野派による二の丸御殿内の障壁画が重要文化財に指定される。
1994年(平成6年)ユネスコ世界文化遺産として登録される。
2005年(平成17年)「築城400年記念 展示・収蔵館」が開館する。
2014年(平成26年)東大手門の修復工事がはじまる。
2017年(平成29年)3月、東大手門の修復工事が完成する。
   
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