二の丸御殿は江戸時代の武家風書院造りの代表的な御殿で、ここの大広間で1867年(慶応3年)10月に15代将軍・徳川慶喜が諸藩の重臣を集め、大政奉還を発表しました。
構造は玄関である車寄(くるまよせ)につづいて、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が東南から北西にかけて雁行に立ち並んでいます。
建物面積3300m2、部屋数は33もあり、畳は800畳あまり敷かれています。
全国でも数少ない現存御殿で、国宝や世界遺産に指定されています。
(ちなみに現存御殿は二条城・二の丸御殿のほかに、川越城と高知城に本丸御殿が、掛川城に二の丸御殿が残っています)
二の丸御殿の障壁画は寛永行幸にあたっての大改修時に全面描き直されています。担当したのは当時25歳の狩野探幽をリーダーとする幕府のお抱え絵師集団・狩野派で、行幸御殿や天守など二の丸御殿以外のものも含めて1年2ヶ月で描き上げました。
現在、障壁画や天井画など3608面が残されており、障壁画1016面が重要文化財に指定されています(うち、杉戸絵は80枚、156面)。なお天井画は美術工芸品ではなく「国宝建造物の一部」として扱われています。
障壁画だけでなく、釘隠しなどの金工や欄間彫刻など、二の丸御殿は桃山文化の集大成ともいえます。
二の丸御殿の内部構造・障壁画
遠侍
現在、見学の際の入口でもある車寄には大きな彫刻があります。ここに彫られているのは鸞鳥(らんちょう)です。鸞鳥とは鳳凰のヒナのことで、君主が折り目正しいときや平和な時代にしか現れなかったとされる鳥であることから、徳川の時代が平和であり、将軍が名君であることを示唆しています。
遠侍はいわゆる玄関であり待合室でもありました。6棟ある二の丸御殿において最大の建物でもあります。
二条城へやってきた大名や使者たちはまずこの遠侍で待たされることとなり、その後、式台で老中と面会します。
「虎の間」とも呼ばれる遠侍の一の間、二の間、三の間には「竹林群虎図(ちくりんぐんこず)」が描かれています。
筆者は狩野永徳の甥にあたる狩野甚之丞とそのグループとされ、桃山時代の様式で描かれています。
なぜ虎の絵が描かれているかについては「来殿者を威嚇するため」という説もありますが、じっさいにはくつろいでいる虎の絵が多いことからも「霊獣である虎を手懐けるくらい、この屋敷の主人(=将軍)は徳が高い」という意味だと思われます。
なお「竹に虎」はセットで描かれることが多く、それは虎にとって安住の地が竹林であるという故事に基づいています。
また虎の中に豹(ヒョウ)が混ざっており、従来は豹を虎のメスとして描いたとされてきましたが、三の間向かって右手(東面)に子どもの虎に授乳してる虎がいることからも必ずしもそうではないと最近は考えられています。
宋の時代の書物に「虎が三頭子を産むと、そのうち一頭は豹柄である」ということわざがあり(意味は「人がたくさんいると必ず変わり者がいる」といったところ)、そうしたことわざ由来の可能性も指摘されています。
建物の裏側(見学ルートでは最後に見る部屋)は「勅使の間」と呼ばれ、朝廷からの使者(勅使)はこちらに通されました。大広間と同じように典型的な書院造りで、一の間が一段高くなっており、朝廷への敬意を建物の構造で示しています。
(勅使を迎える際は勅使が上段の間の上座に、将軍が下段に座りました)
この部屋の障壁画は優美なヒノキや青楓が描かれていますが、筆者は甚之丞ではなく狩野長信(ながのぶ)の説もあります。
式台
二の丸庭園側からの写真ですが、左から大広間、式台、遠侍です。式台については屋根の構造から寛永の大改修時に建てられたとする説があります。
この式台は色代とも書き、将軍への用件や献上品の取り次ぎをおこなう場所でした。表側が「式台の間」、裏側が「老中の間」です。老中の執務室である「老中の間」は3部屋あります。
式台に描かれた障壁画「松図」は狩野山楽(さんらく)の作品とされます(狩野探幽の説もあり)。
松は常緑樹で枯れない、朽ちないことから長寿の象徴として、武家の御殿にはよく描かれたモチーフです。
「老中の間」には一の間と二の間に春から秋の情景を背景に雁が舞う「田圃落雁図(でんぽらくがんず)」を、三の間には雪化粧した柳に数羽の鶯が宿る「雪中柳鷺図(せっちゅうりゅうろず)」を狩野興以らが描いています。
大広間
大広間は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。一の間は広さ48畳、二の間は44畳となっています。
また上記の写真で障子の向こう側にある二の間は後水尾天皇の行幸の際、南庭につくられた能舞台の観覧席として使われました(ちょうど撮影位置あたりが能舞台)。このとき将軍・家光と大御所・秀忠はとなりの三の間で観覧しています。
一の間は二重折上げ格天井、二の間は折上げ格天井と天井のつくりにおいても格式の高さがわかります。
右奥にある帳台構えの裏には「帳台の間」があり、将軍はここから入室したと考えられます。
もっとも格式の高い大広間は当時の実質的なリーダーである狩野探幽が担当しました。
一の間、二の間の絵は「松孔雀図(まつくじゃくず)」と呼ばれ、やはり長寿と繁栄を表現する松が選ばれています。
一の間(上座)に座る将軍がより遠く感じるように、手前から奥に向かって松の枝が伸びており、絵に遠近法が用いられている点にも注目です。
三の間にも巨大な松が描かれています。
部屋の隅から枝が伸びていますが、このように地面や根を描かず、いきなり枝を描く手法は狩野探幽以降に見られる特長です。
また三の間の見どころは厚さ35cmの巨大なヒノキの板を両面から透かし彫りした欄間彫刻です。
(三の間側は孔雀、四の間側には牡丹が彫られています)
不定期に開催されている特別入室の際にはこうした天井画も見ることができます。
四の間は52畳半ある、大広間では最大の部屋です。
「槍の間」とも呼ばれ、将軍上洛時に武器をおさめたことがその由来とされてきましたが、じっさいこの部屋に武器を置いたという事実ははっきりしないため、なぜ「槍の間」と呼ばれるようになったかは不明です。
ただ早くとも江戸中期以降、資料的には1843年(天保14年)以降、「槍の間」の記述が見られ、徳川家茂が上洛した1863年(文久3年)には「槍の間の縁側」で老中が使者と面会したと記録があります。
大広間の障壁画は前述のとおり、狩野探幽の手によるものですが、四の間だけは狩野山楽が担当したと考えられています。
二の丸御殿の中では遠侍とこの大広間四の間だけが桃山時代の様式で描かれており、従来は探幽が祖父である狩野永徳を模倣して描いたとされてきましたが、二条城による調査の結果、山楽の作品と考えるのが妥当と公表されました。
よって二条城を代表する障壁画「松鷹図」は狩野山楽の作品ということになります。
黒書院
黒書院は「小広間(こひろま)」とも呼ばれ、将軍と親藩大名・譜代大名の内輪の対面所として使われました。大広間より若干規模は小さいものの、部屋飾りはより技巧的です。
大広間までの障壁画には季節感がありませんでしたが、この黒書院は私的な空間でもあり、一の間には早春を表す梅とつぼみを残した桜が描かれています。つづく二の間には満開の状態から散りはじめの桜が描かれており、これらの画題から「桜の間」とも呼ばれています。
黒書院の障壁画「桜下雉子図(おうかきじず)」は狩野探幽の弟である狩野尚信(当時20歳)と年長の弟子たちによって描かれました。
また黒書院の特徴として長押の上下を別々のキャンバスにしている点があげられます。遠侍、式台、大広間ではいずれも長押の上下を連続したキャンバスに見立てていましたが、黒書院だけが異なります。
白書院
白書院は将軍の居間・寝室として使われた部屋です。内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なっています。
江戸時代には「御座の間」と呼ばれていました。
(なお「大奥」ではないので男子禁制ではありません)
室内には金碧障壁画ではなく水墨画が描かれていますが、一の間と二の間の山水図は中国の西湖(せいこ)を描いたものです。この筆者は従来、狩野興以(こうい)とされてきましたが、近年の研究で狩野長信が有力だと考えられています。
釣り鐘
二の丸庭園に抜けるところに釣り鐘が置いてあります。
釣鐘について
この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し、鐘楼も建て、鐘が設置されました。
幕府の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡をつげ、明治に入ってから二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていました。 元離宮二条城事務所
菊紋の下から葵紋が発見された
2018年(平成30年)の台風被害により、遠侍南妻面の破風板の飾り金具が外れ、直径64cmの葵紋の跡が浮き出ているのが確認されました。
過去にも唐門の修復時に葵紋の上から菊紋を貼った跡が見つかっています。