二条城の本丸の西側(裏側)のトイレのそばに旧二条城の石垣が移築復元されています。
旧二条城は「二条御所」とも呼ばれており、織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として築城したお城です。
「本能寺の変」において信忠が籠城した二条城はこの旧二条城ではなく、妙覚寺のとなり(烏丸御池)につくられた「二条新御所」のほうの二条城です。
案内板です。
旧二条城の石垣
築条当時、日本における布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスの記録によれば、旧二条城というのは現在の二条城以前に、永禄十二年(一五六九)二月に工事を開始し、常時一万五千人から二万五千人の人役を投入し七十日間程でほぼ全容を整えたということであり、期間を極めて短くするために石垣の石材に近郷の石仏・板碑・燈籠等を収集し、積み込んだと記載されているが、そのとおりの石仏などがこの遺構に見られる。その後、信長は義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、「二条御所」とも呼ばれていた。天正十年(一五八二)の本能寺の変において明智勢に攻めいられ信長の長子、信忠が自刃し、城郭建築は焼失した。
この石垣は、京都市高速鉄道烏丸線(地下鉄)建設に際し、烏丸下立から発見されたものである。石垣は「犬走り」をはさんで上下二段に分れて北面し、東西方向に走り、東南方向に折れる角を持つ。この遺構は移築に際し方向が九十度ほど変わったが、元来は、東西方向が長く、八m強を測り、普通の石材約百五十個の他に四十個程の石仏・板碑・礎石が使われている。昭和五十二年 京都市
推定図も書かれていました。
案内板では「二条御所」と「二条新御所」を同一のものとして扱っています。
たしかにそういう説もあるそうですが、現在は『信長公記』などの史料から、このふたつは別の場所にあったとする説が通説となってます。
見つけにくい場所にありますので、注意して探してみてください。