二条城の北側(竹屋町通)、北大手門の近くに「冷然院跡」の石柱と案内板があります。
冷然院(れいぜいいん)は平安時代の天皇の累代の後院(ごいん=譲位後の御所)のひとつで、北は大炊御門大路、南は二条大路、東は堀川小路、西は大宮大路に囲まれた四町四方の大きな敷地を有していました。
(おおよそ現在の二条城北東部、約四分の一にあたる)
弘仁年間頃に離宮として成立し、第52代・嵯峨天皇が816年(弘仁7年)に行幸したことが記録上の初見となっています。嵯峨天皇は譲位後ここを後院として、その後も歴代の上皇がここに居住し、後院として使用しました。
当初は「冷然院」と記されていましたが、875年(貞観17年)と949年(天暦3年)などたびたび火災に見舞われたため、「然」の字は火に通じて不吉として、954年(天暦8年)の再建の際に「冷泉院」と改称しされています。
ただし改称後の970年(天禄元年)にも火災が起きています。
その後、1055年(天喜3年)に殿舎を取り壊して一条院へ移築されましたが、その後この地がどのように活用されたかは不明です。
なお『源氏物語』第37帖「鈴虫」巻では、光源氏らは冷泉院の召しにより冷泉院に参上したとあります。
冷然院跡
ここは、平安前期〜中期、冷然院があったところである。
京都市
弘仁年中(八一〇~八二四)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用された。
嵯峨上皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として利用された。
建物は前後四回火災にあったが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院とした。
天喜三年(一〇五五)にとりこわされ、以後の状況は不明であるが、平安前・中期の二百年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもあった。
2002年(平成14年)、二条城の展示収蔵館を建設するための発掘調査において、冷泉院の庭園遺構が見つかっています。
2016年(平成28年)には出土品352点が「平安京左京二条二坊『冷然(泉)院』出土品」として京都市指定有形文化財に指定されました。