二条城
二条城

[京都府][山城] 京都府京都市中京区二条城町541


  • 平均評価:★★★★☆ 4.01(11位)
  • 見学時間:1時間27分(25位)
  • 攻城人数:4928(7位)

冷泉院跡(冷然院跡)

二条城の北側(竹屋町通)、北大手門の近くに「冷然院跡」の石柱と案内板があります。

冷然院(れいぜいいん)は平安時代の天皇の累代の後院(ごいん=譲位後の御所)のひとつで、北は大炊御門大路、南は二条大路、東は堀川小路、西は大宮大路に囲まれた四町四方の大きな敷地を有していました。
(おおよそ現在の二条城北東部、約四分の一にあたる)

弘仁年間頃に離宮として成立し、第52代・嵯峨天皇が816年(弘仁7年)に行幸したことが記録上の初見となっています。嵯峨天皇は譲位後ここを後院として、その後も歴代の上皇がここに居住し、後院として使用しました。

当初は「冷然院」と記されていましたが、875年(貞観17年)と949年(天暦3年)などたびたび火災に見舞われたため、「然」の字は火に通じて不吉として、954年(天暦8年)の再建の際に「冷泉院」と改称しされています。
ただし改称後の970年(天禄元年)にも火災が起きています。

その後、1055年(天喜3年)に殿舎を取り壊して一条院へ移築されましたが、その後この地がどのように活用されたかは不明です。
なお『源氏物語』第37帖「鈴虫」巻では、光源氏らは冷泉院の召しにより冷泉院に参上したとあります。

冷然院跡

 ここは、平安前期〜中期、冷然院があったところである。
 弘仁年中(八一〇~八二四)嵯峨天皇の離宮として造営されたのがはじめで、林泉を前に数十の建物が建ち、天皇はしばしば行幸になって、華麗な詩歌の宴を行い、譲位後は、後院(上皇の御所)として使用された。
 嵯峨上皇の後、冷然院は皇室の重要な財産として伝えられ、代々天皇の離宮・後院として利用された。
 建物は前後四回火災にあったが、そのたびに面目を一新して再建され、その間に然の字を改めて冷泉院とした。
 天喜三年(一〇五五)にとりこわされ、以後の状況は不明であるが、平安前・中期の二百年以上にわたり、代々皇室に愛好され、林泉の美をたたえた文学作品も多く、平安文化の一中心でもあった。

京都市

2002年(平成14年)、二条城の展示収蔵館を建設するための発掘調査において、冷泉院の庭園遺構が見つかっています。
2016年(平成28年)には出土品352点が「平安京左京二条二坊『冷然(泉)院』出土品」として京都市指定有形文化財に指定されました。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

二条城の城メモ一覧

二条城ガイドツアーのご案内
攻城団では不定期ではありますが、団長こうのがガイドをつとめるガイドツアーを開催しています。ほぼ毎月開催されていますので、日程があえばぜひご参加ください。募集状況は「城たび」のページで確認できます。
城たび(日本全国の名城ツアーガイド)

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

天下 家康伝 上 (文春文庫)

徳川家康の生涯を描いた小説です。
大阪の陣が終わり江戸から駿府に向かう途中、泉頭の地で過去を回想する場面から始まります。一向一揆との戦い、三方ヶ原での敗北、嫡男信康の自刃、伊賀越えの窮地、小牧・長久手での辛酸、多くの出来事が家康の心情とともに描かれます。「家康の考える天下とは何か」が物語の主軸となっており、家康の生き様を感じることができました。
本作品は大河ドラマ「天地人」の原作者でもある火坂雅志氏の遺作になります。

伝もものふ山田(ヤマー)さん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る