現在、二条城には天守がありませんが、天守台は残っています。
かつてはここに天守がありましたが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されませんでした。
本丸から天守台に上がることはできます。
天守台から見た内堀です。奥に見えるのは桃山門です。
過去の二条城の天守
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園のあたり)に望楼型の5重天守として描かれています。
この天守は1606年(慶長11年)に徳川家康によって建てられたもので、大和郡山城天守の移築説があります。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられます。
(大和郡山城天守の移築説については建築学的には否定されていましたが、大和郡山城と淀城の天守礎石位置が酷似していることから近年は信ぴょう性が高まっています)
なお、この天守は3代将軍・徳川家光のときに行われた寛永の大改修時に淀城にふたたび移築されました。
(移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能だそうです)
その際に築かれたのが現在の本丸の南西隅にある天守台で、1624年(寛永6年)に伏見城の天守を移築改造し、複合式層塔型5重5階(独立式の説もあり)の天守を上げました。
伏見城が選ばれたのは地理的に近いだけでなく、前年の一国一城令によって廃城となっていたことも関係していると思われます。
この寛永期天守は天皇が昇った唯一の天守でしたが、前述のとおり、1750年(寛延3年)に落雷で焼失しました。
なお、幕末には天守台に高層の火の見櫓が建てられていたことが、古写真よりわかっています。