大和郡山城には1580年(天正8年)頃の筒井順慶の時代に望楼型3重の天守がありました。
この天守は筒井順慶の死後、養子の筒井定次が豊臣秀吉の命により伊賀上野へ転封となった際に伊賀上野城に移築されました。
その後、豊臣秀保によって5重6階(または5重5階)の巨大な天守が築かれたたと伝わっていますが、詳細は不明です。
なお、仮に存在した場合も、関ケ原の戦い後に徳川二条城へ移築された説や、大和大地震で倒壊したという説、さらには逆さ地蔵の祟りで倒壊したという説もあるそうです。
ただ天守台の大きさなどから、この5重の天守については建築学的には否定されており、もう少し小さな天守が建っていたと推定されています。
江戸時代には水野勝成や松平忠明、柳沢吉里など多くの城主が入れ替わりますが、天守は再建されなかったようですね。
天守台は現在も残っており、天守台の石垣には多くの転用石が使用されています。なかでも「さかさ地蔵」は有名です。
また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもあります。
石段はとても雰囲気がありますね。
天守台の中央には石碑があります。
この石碑は明治33年に大正天皇のご成婚を祝して、城跡一帯に松と桜を植えたことを記念した「植松桜碑」だそうです。