この2重櫓が追手東隅櫓と呼ばれるようになったのは柳沢吉里が甲府城から入封したのちのことで、それまでは「法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)」と呼ばれていました。
物見櫓として使われ、追手門を横矢で守備する重要な櫓でした。
また、かつては時を知らせる太鼓が置かれていたそうですが、1873年(明治6年)に取り壊されました。
市民の寄付などにより、1984年(昭和59年)に復元されました。
発掘調査の結果、この復元追手東隅櫓周辺からは多聞山城から流用されたとされる軒平瓦が出土しています。