別名 大和郡山城、雁陣之城
お知らせ 詳細
大和郡山城は筒井順慶によって築かれた城です。その後は秀吉の実弟である羽柴秀長の居城となりました。江戸時代には譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城としました。大和は石材に乏しい国であったため、天守台の石垣には墓石や地蔵までもが用いられています(これを「転用石」と呼びます)。なかには「逆さ地蔵」と呼ばれる、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵があります。現在は本丸の石垣や堀が残っており、また大手門、大手東隅櫓、大手向櫓が復元されています。大和郡山城は桜の名所として、日本さくら名所100選にも選定されており、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわいます。
郡山城を訪問した2044人の報告によれば、平均見学時間は1時間5分、平均評価は3.54点となっています。
郡山城を攻城した団員が残してくださったコメント(クチコミ)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
郡山城に関するデータ 情報の追加や修正
72.6 m
内郭:-- ha 外郭:-- ha
5重6階または5重5階
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1580年(天正8年)頃の筒井順慶の時代には望楼型3重の天守があったが、1585年(天正13年)に伊賀上野城に移築された。その後、豊臣秀保によって高さ約15~20m、5重6階または5重5階の2代目天守が築かれたが、この天守も徳川二条城へ移築されたと伝えられる。なお、この5重の天守については建築学的には否定されてきたが、2014年(平成26年)の調査で天守台に礎石が発見され、存在がほぼ確実となった。
筒井順慶
着工 1580年(天正8年)
1873年(明治6年)
筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛
筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
石垣、堀
国史跡
大手向櫓、東櫓、大手門
登録日:2013/11/17 17:35:49
更新日:2024/10/10 03:28:26
郡山城の見所や歴史などを紹介します。
【7/13〜12/15、奈良県大和郡山市】柳沢文庫で特別展「郡山藩主 柳澤吉里」開催 - お城ニュース by 攻城団
現在、柳沢文庫(奈良県大和郡山市)において柳澤吉里郡山入部300年記念特別展(前期)「郡山藩主 柳澤吉里」が開催中です。12月15日(日)まで。
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9月29日(日)、DMG MORIやまと郡山城ホール(奈良県大和郡山市)において柳澤吉里公郡山入部300年記念イベント「甲府市から郡山へ 郡山から未来へ」が開催されます。要事前申込、先着順。 第1部は「第27回こおりやま歴史フォーラム 柳澤郡山藩政の遺産」、第2部は「平山優氏 記念特別講演・ パネルディスカッション」が予定されています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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