二の丸御殿を囲う築地塀も国の重要文化財に指定されています。
築地塀は筋塀とも呼ばれますが、柱を立て板を芯として泥で塗り、柱と柱の間に横線を入れ屋根を瓦で葺いた塀です。この横線を定規筋といい、5本の線がもっとも格式が高いとされていました。
築地塀の前にある二条城の案内板です。
元離宮二条城
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。
京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行なわれた。
その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。しかし、寛延3年(1750)、雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓の多くを焼失した。
文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、また慶応3年(1867)には十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、7年には本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。
城構は、平城で、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの壕をめぐらし、東西約480m、南北360mあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。