綱吉股肱の臣
さて、綱吉が自らの治世においてその独裁色を強めていくにあたって、まず最初の側近として活躍したのが牧野成貞(まきの なりさだ)である。前述したとおり、綱吉にとっては神田御殿時代からの家老であった。
牧野家は古代日本で活躍した政治家・武内宿禰の子孫とされ、三河守護の一色家に仕えていたのが家康に属するようになり、譜代の家臣として活躍。特に牧野康成は「徳川十七将」に数えられるほどの人物で、家康・秀忠といった初期の将軍たちから厚い信頼を受け、家康の「康」の字をもらっている。
本家は幾度かの転封後に越後国長岡藩6万4千石に定着し、明治維新にいたった。
一方、康成の3男・儀成は寄合旗本として5千石を受け、その子の成貞は神田御殿の綱吉に仕えるようになった、というわけである。
幕府重鎮であった堀田正俊の死を受けて、幕政に大きな影響力を持った成貞の役職が「側用人」だ。これは将軍と老中たちの間をつなぐ仕事であったが、正俊の事件を受けて老中の部屋が以前より将軍から遠くなったため、その重要性が高まった。
現代の企業でたとえるなら、専務たちが社長に意見を伝えたくても、必ず秘書室を通さなければいけない、社長からの指示もそれと同じく――といえば、どのくらいの要職であるか、伝わるだろうか。
このようにそれまでの老中に対して将軍の側近である側用人が大きな存在感を持つようになった状態を「側用人政治」といい、8代将軍・徳川吉宗の登場までしばらく続くこととなる。
これほど重要な役職を任せただけに、綱吉はずいぶん彼を信用し、また厚遇したようだ。直臣になった際に1万3千石であった所領は加増を繰り返し、最終的に7万3千石にまでいたっている。
綱吉がたびたび彼の屋敷を訪れたのも、またふたりの養子を取らせて厚遇したのも(残念ながらこのふたりは若死にしている)、将軍からの寵愛の度合いを示している、と考えていいだろう。綱吉が脇差や白銀などを成貞に与え、そのお礼として成貞も太刀や馬などを献上した、という話も伝わっている。
ただ残念なことに、成貞はあまり体の強いほうではなかったようだ。
1695年(元禄8年)には職を辞している。1709年(宝永6年)に綱吉がこの世を去ると、成貞は出家した。その後は碁の世界において才能を発揮したが、3年後に彼もまたこの世を去った。
抜擢はされたものの
牧野成貞が幕政の一線から下がってしまったため、綱吉としては新たな側近を置かなければならなかった。
そこで1688年(元禄元年)に選ばれたのが同じ神田御殿出身の柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)であるが、実は彼と同じ頃に側用人になっていた者がふたりいる。この時点では、吉保よりもふたりのほうが格上であった。
まず、喜多見重政(きたみ しげまさ)は元北条家臣の血筋で、養父の重恒の代には諸藩を監視したり幼少の親藩大名の藩政を代行したりと、将軍の手足として活躍している。重政は綱吉の小姓から出世を重ね、家督継承時に1120石だったのが2万石まで加増された、綱吉の寵臣といっていい存在である。
ところが、重政は側用人になった直後に失脚してしまう。理由は「弟が不倫の末に相手の夫を殺害するという事件を起こし、連座したから」「弟が起こした事件を権力でもみ消そうとしたのが問題になった」「綱吉と意見を対立させるようになり、また勤務にも熱心でなくなったから」など、さまざまに語られている。
いまひとり、南部直政(なんぶ なおまさ)は陸奥国八戸藩の藩主で、清和源氏の名門である盛岡藩南部家の分家筋にあたる。
学問を好んで綱吉に厚遇されたというが、彼もまた側用人となってまもなくその職を辞した。理由は病気であるというが、「彼の手にできた瘡(できもの)を、綱吉が嫌ったから」とも伝わる。
このふたりは譜代であったり名門であったりしつつも幕閣の重職に就けるような家格ではなかった。
さらにその後も外様大名家から側用人が選ばれており、従来幕政を独占していた名門譜代大名から政治を取り戻そうという綱吉の強い意志が感じられる。――が、結局のところ彼らはみな早い時期に職を辞してしまい、長く側用人として権勢を振るったのは成貞・吉保という神田御殿出身のふたりだけであった。
このあたりに、人事を駆使して自らの思う運営をしたいワンマン社長と、それについてこれない部下たち、というこれまた現代でもありがちな光景が見て取れるような気がする。