757年(天平宝字元年)○藤原仲麻呂 ×橘奈良麻呂
聖武天皇の次代、孝謙天皇の御世になると、政治の主導権は再び藤原氏に移る。
藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)の子、仲麻呂(なかまろ)が光明皇太后と孝謙天皇に可愛がられ、また自らの政治力も存分に発揮して勢力を拡大していったのである。752年(天平勝宝4年)に行われた東大寺の大仏開眼の際には孝謙天皇を自宅に招待したといい、その力はますます強くなっていた。
また、光明皇太后は仲麻呂を政治のトップにすべく、新たに紫微中台(しびちゅうだい)という光明皇后直属の官庁を作り、その長官に仲麻呂を据えた。
紫微中台から出た勅命は光明皇后の意思ということになり、絶対的である。その長官になったということは、政権を握ったも等しかったわけだ。
対する諸兄(もろえ)サイドの方はといえば、かつての政権を支えていた玄昉(げんぼう)が745年(天平17年)に左遷されてそのまま亡くなり、吉備真備(きびのまきび)も750年(天平勝宝2年)に筑前に飛ばされてしまい、とその力を着実に減退させていった。
そもそも諸兄自身がこの頃には相当な老齢であり、二十近くも若い仲麻呂の勢いに対抗できなくなっていたようだ。そして756年(天平勝宝8年)、諸兄はついに官職から退いた。
このような現状を打破すべく決起したのが諸兄の子・橘奈良麻呂(たちばな の ならまろ)である。
諸兄が亡くなった757年(天平宝字元年)、藤原氏を倒すべくクーデターを計画した。同年に聖武天皇も亡くなっており、次期天皇を決めるにあたって朝廷内が不安定な情勢になっていた時期でもあった。この隙を狙ったのである。
ちなみに、計画自体は745年(天平17年)の頃にはすでにあったというから、藤原氏の専横に対する不満は相当なものだった、と考えていいだろう。
奈良麻呂は天武天皇の孫である道祖王(ふなどおう)、遣唐使の大伴古麻呂(おおとも の こまろ)らと協力して仲麻呂を倒そうとした。
しかし、相次ぐ密告により計画は露呈してしまう。奈良麻呂と関係者は捕らえられ、処刑されてしまったのだ。捜査過程で拷間によって死んだものも少なくなかったようである。
こうして橘奈良麻呂の乱はごくあっさりと終わってしまったのだ。
その原因としては「反藤原氏」を掲げて諸勢力を結集させようとした奈良麻呂に対し、仲麻呂の作り上げた政権は磐石であり、「味方しても利は少ない」と判断したものたちが次々と密告に及んだことがあると考えられる。
この件を事前に抑え、また翌年には淳仁天皇を擁立させて天皇より「恵美押勝(えみ の おしかつ)」の名を与えられたことなどもあって、仲麻呂の独占政治体制はさらに磐石のものとなったかに見えたのだった。