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【クーデターで読み解く日本史】中央集権のカタチをめぐる争い――乙巳の変

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645年(皇極4年) ○中大兄皇子・中臣鎌足 ×蘇我氏宗家

女性天皇として名高い推古天皇(すいこてんのう)の時代、政治を主導していたのは彼女に加えて天皇を補佐する役職である摂政の厩戸王(うまやとおう=聖徳太子、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ))、そして有力豪族・蘇我氏の長である蘇我馬子(そが の うまこ)だった。二人は共に蘇我氏の血を引いている。
この二人の連携の下、それまでの豪族主導の政治に代わり、中央集権の官僚政治の確立を目指して、新たな位階である冠位十二階や官僚のあるべき姿を規定した十七条の憲法などが制定された。中国の隋王朝に対して遣隋使を派遣し、その回上の中で隋の皇帝を「日没するところの天子」、日本の天皇(大王)を「日出づるところの天子」と対比させて、中国から独立した国家としての日本を目指したのもこの頃のことである。

彼ら推古天皇時代を主導した二人が亡くなった後も、蘇我氏の権力は拡大していった。馬子の息子・蝦夷(えみし)や孫の入鹿(いるか)が強大な力を振るい、対抗馬となりえた厩戸王の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を殺害するなど、専横の度合いを増していったのである。
このように蘇我氏が権力の集中を図った背景には、中国や朝鮮でクーデターが相次ぎ、東アジア情勢が混迷を増して、日本でも強い力を持った政権が必要だという危機感が背景にあったのだとされる。東アジア情勢は南淵請安(みなぶち の しょうあん)や高向玄理(たかむこ の くろまろ)、旻(みん)法師といった中国帰りの人々によって海外の進んだ知識とともに伝えられていた。

一方、やはりそうした知識人たちから海外情報を伝えられて蘇我氏と同じ危機感を共有しながら、しかし別のやり方を模索した者たちもいた。その中心にいたのが中臣鎌足(なかとみ の かまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)であった。
彼らは天皇を中心とした強力な政権を作り上げるため、最大の障害である蘇我氏の排除を画策した。蘇我氏の有力者で入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)を実行の仲間とし、万全の準備をして決行日を迎える。645年(皇極4年)6月のことである。
当日は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)に三韓(さんかん)の調がもたらされる日で、入鹿も参内していた。海外情勢への対応について話し合いがもたれる予定だったのである。

さて、暗殺は三韓の調の儀式の中で行われる予定だったが、現れるはずの刺客が怖気づいて出てこない。
天皇に奏上する表文を読む石川麻呂は誰も現れないため焦っていた。そのため、汗が垂れ、声が乱れ、手が震えてしまったという。その常ならぬ様子は暗殺ターゲットの入鹿にさえ「どうしたのか」と心配されたほどだった。

石川麻呂がどうにか「天皇の前で読むので恐れ多いのです」と切り返したところに、中大兄皇子と中臣鎌足が現れる。
当てにならぬ刺客に見切りをつけ、自ら入鹿を殺すべく動いたのだ。率先して槍を構える中大兄皇子は「入鹿が朝廷を乗っ取ろうとしている」と宣言した上で襲い掛かり、仲間とともに暗殺に成功した。
この後、蘇我氏方の兵との間で一時緊張も高まったが戦いは回避され、入鹿の父・蝦夷は追い詰められて自殺した。いわゆる乙巳の変の顛末は以上のとおりである。

後にこの一件に参加した石川麻呂も「中大兄皇子を暗殺しようとたくらんだ」という疑惑をかけられて自殺してしまったので、蘇我一族は衰退していくことになる。
一方でクーデターを成功させた中大兄皇子や中臣鎌足は改革を推し進め、日本が律令国家となる基盤を作り上げていった。この一連の改革を「大化の改新」と呼ぶ。あるいはクーデター事件である乙巳の変からすべて含めてこの名で呼ぶこともあるようだ。

なお、この時の功績で中臣鎌足は藤原姓を名乗ることを許された。彼こそが藤原氏の祖となった人物であり、子々孫々に至るまで天皇家とは深いかかわりを持っていくことになるのである。

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