769年(神護景雲3年) △道鏡 ×和気清麻呂
藤原仲麻呂の乱が終結し、孝謙上皇が称徳天皇として政治の前面に出てくると、いよいよ彼女の寵愛を受ける僧侶・道鏡が実権を掌握する。道鏡は太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)として位人臣を極め、さらに天皇と並ぶ地位である「法王」に任じられた。
この時期が道鏡の絶頂期といってよく、彼の意向を反映して寺の造営が相次ぐなど仏教政治が進んだ。たとえば墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう=新たに開拓した田畑は自分のものにしてよい、という法)を改定して「寺院はよいが貴族はダメ」としたことなどは道鏡らと貴族が対立する大きな原因となり、後の事件のバックボーンとなったといえる。
そんな中、769年(神護景雲3年)に宇佐八幡宮(あるいは宇佐神宮。豊前国、現在の大分県宇佐市大字南宇佐に鎮座し、朝廷が崇め奉った)から驚くべき神託がもたらされた。
「道鏡を天位につけたならば、天下太平ならん」――つまり、道鏡を天皇にしろ、というのである。
このことは彼を寵愛し、法王として自らに準じる地位へつけた称徳天皇としてもさすがに悩む問題であったらしい。道鏡の出身は河内の豪族・弓削(ゆげ)氏で、名前のとおり弓の製造が古来の役目である。とても天皇になれるような血筋ではない。
悩んだ末、天皇の夢の中に八幡神の使いが現れ、「側近の法均尼(ほうきんに=和気広虫女(わけ の ひろむしめ))を使者として送るように」と告げたという。結果、法均尼の弟・和気清麻呂(わけ の きよまろ)が代役として宇佐八幡宮を訪れ、はたして先の神託が真実であるか否かを確かめることになった。
かくして清麻呂が持ち帰った新たな神託は「無道の人を排除せよ、天つ日嗣(ひつぎ)は皇緒(こうちょ)を以てせよ」であった。ここに「道鏡を天皇に」という先の神託は否定され、道鏡が天皇になる道は閉ざされた。
もし新たな神託もまたそれを肯定するものであれば日本史上においても最大級のクーデターが成立したかもしれないが、それはかなわなかったのである。
結果、和気清麻呂は「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」、法均尼は「別部穢虫(わけべ の さむし)」と名前を変えさせられ、それぞれ大隅と備後へ配流されてしまった。
これについては道鏡と天皇の怒りを買ったためとするのが一般的だが、本来は天皇による私の神託の確認だったのが、清麻呂の報告によって公の発表になってしまい、これが臣下の身でありながら皇統へ干渉するという越権行為にはかならない、とする見方もある。
この事件の真相については、天皇にならんと欲する道鏡のために宇佐八幡宮が「道鏡を天皇に」という神託を出したが、清麻呂らによってその陰謀を打ち砕かれたのだといわれている。
実際、彼が法王になったのは「その善政の象徴として仏舎利(釈迦の遺体)が出現した」という出来事を受けてのものだったのだが、実はこの出来事がでっち上げであったことが宇佐八幡宮神託事件の前年に発覚している。このような前歴を持つ、天皇に頼らない独自の権力をつかもうと考えた道鏡一派が今度は神託を偽造した、というのはいかにもありそうな筋書きに思える。
ともあれ、この一件は天皇の頭に冷や水を浴びせかけ、我に返させることになったようだ。
八幡神の言葉の真実はともかく、清麻呂の言葉に代表されるような道鏡に反発し、その天皇位簒奪を許さないとする貴族や庶民の意見は明らかであり、いかに彼女が道鏡を愛そうとも、それらの声を押し切ることはできなかったのである。
称徳天皇が生きている間は道鏡の権勢は変わらず絶大であったが、それも770年(神護景雲4年)に天皇が亡くなるまでであった。天皇の葬儀はそのすべてを取り仕切ったが、もちろん彼の名が次代の天皇としてあがることはなく、それどころか坂上苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ=のちの征夷大将軍・坂上田村麻呂の父)による「道鏡は皇位を簒奪しようとしていた」という密告を受けて下野の薬師寺に流されてしまった。
これは実質的に罪人の扱いであり、772年(宝亀3年)に亡くなった際の葬儀も庶人としてのものだった。一度は巨大な権力を握った男の失脚と死は驚くほどあっけないものだったのである。この事件を裏で画策していたのは藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原百川(ふじわら の ももかわ)だといい、以後彼と藤原式家は政治のメインストリームに躍りだしていくことになる。
ちなみに、法均尼と清麻呂の姉弟は道鏡の失脚から間もなく呼び戻されて、名前と地位を回復された。また、清麻呂は後に桓武天皇に重用され、大いに活躍している。