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【殿様の左遷栄転物語】付家老の宿願ーー独立

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主君への忠誠から独立志向へ

さて、付家老たちの立場も、時の流れを受けて変遷していくことになる。
初代の御三家付きの家老たちの多くがもともと幕府の中枢に深く関与していたのはすでに紹介したとおり。彼らのうち幾人かは幼い主君に代わって藩政を執りつつ引き続き家康の下で幕政にかかわっていた。それどころか、家康が亡くなって実権が完全に秀忠へ移り、付家老が代替わりしても、少なくともしばらくの間は幕政に関与していた者がいたらしきことまでわかっている。

この時期、付家老は制度的にはあくまで陪臣であったが、実質的には「御三家の政治を助ける譜代大名」のような存在だったのではないだろうか。
しかし、そのようなあいまいな立場の存在が許されるのも、あくまで政権初期の制度がきっちりと構築されていない時期までのこと。次第に幕府の制度が確立していき、また武家が厳密な家格によってその立場を判断されるようになると、付家老たちは「万石以上の所領を有してはいるが、あくまで陪臣」でしかなくなる。

彼らには特権として「先代から家督を継承すると同時に家老になる」「大名と同じように江戸屋敷を与えられる」「(家によって事情は違うが)領地を独自に支配し、経済的にもある程度本藩と切り離されていた」「陪臣だが御目見の資格(将軍との謁見が許される)があった」「江戸に上がって諸大名の屋敷を訪ねた際には、正門を開いて出迎えられた」などがあった。
しかし、彼らが大名たちのように江戸城内に詰間(つめのま=待機場所)を与えられることはなく、公式記録にもあくまで「家老」としか記述されない。もちろん、老中に代表されるような公的な役職につくこともない――石高や血筋のことを考えれば、老中になってもおかしくない格の者もいるのに、である。

実際、幕末の混乱期に活躍した老中である安藤信正を輩出した磐城平藩安藤家は、紀伊藩付家老の祖である安藤直次の弟・重信から始まった家系である。
つまり、直次の子孫のほうが嫡流なのに、傍流から老中が出てしまったわけだ。こういう状況が、付家老たちにとって面白いはずがない。
そうでなくても、江戸時代の武家というのは家格に誇りを持ち、こだわったものである。付家老ではなく独立した譜代大名になりたい、そうでなくてもせめて家格を上昇させて少しでも普通の大名に近い存在になりたい――そのように思うのは、ごくごく当然のことといえる。

付家老の独立運動に主君が妨害

付家老の家格上昇運動、独立運動を最初に始めたのは、水戸藩の中山家とされる。
中山信敬は6代目の水戸藩主・徳川治保の弟に当たる。彼はまず単独で幕府に対して「水戸藩主に同行しているとき以外でも、独自に江戸城に登って将軍に会えるようにしてほしい」と働きかけた。

しかしうまくいかなかったのか、やがてこれが他の四家を巻き込んでの運動に発展していく。この際の要求は「付家老たちにも江戸城に詰間をもたせてはしい」というものだった。信敬が病気で隠居したあとは安藤・成瀬の両家が中心となって工作し、要求のうち付家老の単独登城を実現させている。
老中も務めた磐城平藩安藤家とのつながりが役立ったらしい。この後も彼らの運動は継続し、独立大名とまではいかないものの、成果を残していく。

一方、これを黙って見ていられないのが、彼らの主君である御三家である。
特に水戸藩の9代目藩主である徳川斉昭(とくがわ なりあき)は彼らの最終的な目標を御三家からの独立、大名化であると看破し、積極的な妨害に出た。彼らが独立すれば、相対的に御三家の力が失われる、と考えたのだ。
斉昭は付家老たちが運動によって得た単独登城の特権を手放させ、また従来持っていた特権である江戸屋敷も手放させるよう、さまざまな形で工作した。ただ、彼の工作は大きな結果は残せなかったようで、付家老たちの運動が続いていくことになる。

このように幕府が付家老たちの要望を受け入れていったのは、先述したとおり、御三家を監視しコントロールできる存在としての彼らに、大きな意義を認めていたからに他ならない。
初期には主家に対する強い忠誠意識をもっていた彼らも、やがて置かれた立場への不満を隠しきれなくなると、藩よりもむしろ幕府側に立って行動するようになったから、なおさらだ。幕府からの要求を実現することによって、自分たちの要望も飲んでもらおう、と考えるからだ。

その象徴的な出来事として、将軍家から押し付けられた養子を藩主として迎え入れたことがある。
11代将軍の徳川家斉は男子だけで28人という大変な子だくさんの人で、彼らをどのように処遇するかが幕府にとって頭痛の種となった。かつて家康がやったように大名として立てるのが筋ではあるが、慢性化した財政難の中ではそうもいかない。
そこで尾張に十九男の斉温が、紀伊に七男の斉順が(その死後には二十一男の斉彊が)、それぞれ迎え入れられることになった。しかし、これはそれぞれの家の分家を飛び越えてわざわざ外から養子を連れてきたということで非常に強引なものであり、藩内には強い反発もあった。付家老たちの協力がなければ、決して実現することはなかっただろう。

幕府と新政府の思惑

ただその一方で、幕府側に付家老たちを独立させる意思がなかったことも、どうやら確かであるらしい。
独立させてしまえば御三家へのコントロール機構として使うことはできなくなってしまうし、彼らの独立は御三家に深刻なダメージを与えることにもなりかねないから、当然の判断といえよう。幕府は名誉や格は与えても、実のある権利は与えなかったわけである。

実際、どれだけ付家老たちが運動しようとも、江戸時代を通してその望みがかなうことはなかった。
彼らの念願が成就するのは1868年(明治元年)、旧幕府打倒を進める新政府の手によってだったのである。その背景には、御三家を弱体化させることによって旧幕府打倒をより容易にしようという思惑があったのでは、と考えられている。

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