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【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

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田辺与力騒動

紀伊藩付家老のトビックとしては、まず江戸末期・安政年間の田辺与力騒動がある。
安藤家の所領である田辺の地には、「田辺与力」と呼ばれる紀伊藩直属の武士団がいた。彼らはもともと武勇を評価した家康によって横須賀の地に住まわせられた「横須賀党(横須賀者)」だったのが、頼宣付きとなって田辺に移住した者たちである。
ちなみに、同じように水野家の所領がある新宮に移住した者たちもおり、彼らは「新宮与力」と呼ばれる。これは重要拠点である田辺・新宮を軍事的に強化するとともに、安藤・水野両家に対する牽制の意味があった、と考えられている。

幕末期の安藤家当主・安藤直裕(あんどう なおひろ)は安藤家とこの田辺与力との間に起きていた衝突を解決し、また幕末の混乱の中で必要になっていた海防強化を目指すために、田辺与力たちを安藤家の支配下に置こうと試みたのである。
当然、田辺与力たちは紀伊藩の直臣から陪臣に落とされることをたやすく認めようとはせず、激しく抵抗した。しかし、この時期には紀伊藩内部でも政変があって安藤・水野両家の力が強まっており(理由は後述)、これを回避できなかった(田辺与力だけでなく、新宮与力もこの際に水野家の支配下に置かれている)。
最終的に田辺与力の一部は所領を脱出、艱難辛苦の末に再び紀伊藩に仕えることに成功している。

水野忠央の暗躍

これと連動していたのが、同じく幕末期の水野家当主・水野忠央(みずの ただなか)の暗躍である。
紀伊藩の10代藩主・徳川治宝(とくがわ はるとみ)が隠居に追い込まれた際、付家老二家が推進して続けざまに2代、将軍家より養子を迎え入れたのは、すでに紹介したとおりだ。
これは前述したような付家老たちの独立志向に加え、藩内の権力闘争が背景としてあったものと考えられているが、結局のところ治宝は隠居後も実権を握り続けて付家老二家を遠ざけた。それは13代目である徳川慶福(とくがわ よしとみ、のちの家茂)の時代になっても変わらなかった。

しかし治宝が病没すると、忠央は安藤家と協力して権力奪回に動き出す。治宝のもとで藩政を預かった中心人物をそれぞれの領地に無理やり幽閉してしまうと、治宝派勢力を一気に失脚させてしまった。
そして、それまで治宝によって押さえ込まれてきた鬱憤を晴らすかのように、実権を付家老二家のもとで独占する体制(実際の主導権は忠央にあったと見られる)を築き上げたのである。もちろん、自分たちの領地における独立性を高めていくことも忘れなかった。こうして作り上げた権勢の延長に、先述した田辺与力騒動もあったわけだ。

水野忠央が独立性を高めていった様子については『公純私録』という史料から垣間見ることができる。
この史料によると、彼は自らの領地である新宮領の船が、本来なら口銀(付加税)を藩に納めなければいけないのに、自らの特権を駆使して無理やり払わなくていいことにしてしまった、というのである。これはすなわち、紀伊藩の存在感をなるべく削り、相対的に自らの権威を高めていこうという策動に他ならない、とされているのだ。

また、造船事業にまつわる事情からも、忠央の独立志向を見ることができる。
繰り返すが、彼の活躍した時期は幕末の動乱期であった。この時期は財政の悪化や内部の勢力争いで幕府が混乱しただけでなく、外部からはアメリカのペリー艦隊をはじめとする異国船の来航が頻発し、国を開くか否か、海防をどうするか、というのが一大問題となっていた。
そのために幕府はそれまで諸藩に禁じてきた大型船、軍艦の製造を許さざるを得なくなり、薩摩藩や水戸藩などの雄藩がこれに着手している。

さて、ここに目をつけたのが忠央だ。この時、紀伊藩は財政難から大型船の建造などできず、苦心惨憺の末に資金を調達して海外より船を購入していたのに対し、忠央は自らの新宮領で軍艦を造り上げようとしたのである。
これは他藩への対抗意識というのもあったと考えられているし、新宮領の存在感をアピールしようという意図もあったに違いない。わざわざ同じ御三家の尾張藩士を江戸から連れてきて技術指導を頼み、新宮領の鍛冶たちに「一之丹鶴丸」を建造させている。
残念ながらこの船自体は失敗作であったのだが、その後二隻目である「二之丹鶴丸」を建造させているから、忠央としてはかなり入れ込んだ計画であったらしい。

さらに幕政にまで

さらに忠央は藩政だけでなく、幕政にまで関与する。
そもそも、彼は江戸定府の立場を利用して、付家老五家の中でも特に積極的に対幕府工作を行っていた。まず、妹のひとりを大奥に女中として送り込む。彼女に時の将軍・家慶の手がついて、四人もの子どもを生んだ。その中でも末子の長吉郎は家慶から溺愛されたというから、忠央の思惑は見事に当たったといっていいだろう。

実のところ、これは「大名の子女を側室として送り込まない」という大奥のルール破りだったので、他の四家からはいい目で見られなかったというが、少なくともこの時の忠央はなりふり構わずに幕府と関係を結んで、先祖代々の目標であった大名への返り咲きを果たそうと考えていたのであろう。
しかも、妹ふたりを家慶の側近に嫁がせ、また弟3人を幕臣の婿養子として送り込んで、人脈を作り上げていったのだ。もちろん、前述した紀伊藩への将軍家からの養子迎え入れも、この延長である。

そして、こうした人脈が、幕政への口出しにおいて大きな意味を持つことになる。
第3章の冒頭でも少しだけ触れたが、この時期の幕府は「安政将軍継嗣問題」と呼ばれる大問題に揺れていた。病弱で後継者のいない13代将軍の「次」を誰にするかで、幕閣どころか全国の諸大名も巻き込んでの激論に発展したのである。
この問題に、忠央は井伊直弼と協力して慶福を推す「南紀派」と呼ばれる党派を結成して、一橋慶喜を推す「一橋派」と呼ばれる党派と対立する。

この一橋派には、慶喜の父である水戸藩主の徳川斉昭(とくがわ なりあき)や福井藩主の松平慶永(まつだいら よしなが=春嶽)などの親藩大名が名を連ねたほか、薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)、土佐藩主・山内豊信(やまうち とよしげ=容堂)といった西南の外様雄藩の藩主たちも加わっていた。慶永、斉彬、宗城、豊信の四人はそれぞれに開明派的な人物であり、後世に「幕末の四賢侯」と呼ばれている。

一橋派は彼らのように幕府と日本の行く末を憂い、しかし親藩や外様であるために幕政に直接関与できない(要職に就けるのは特殊ケースを除いて譜代の名門大名のみ)状況から、英才と名高い慶喜に望みをかけた部分が大きかったと考えられる
このような一橋派に対し、南紀派としては忠央が作り上げていた人脈が有効に機能し、大奥からの支持を取り付けていたようだ。

最終的に、大老についた直弼が少々強引ながらも慶福を「家茂」として将軍職に就け、また対立した一橋派を徹底的に弾圧している。事態がこのまま進行すれば、忠央が望みをかなえて独立大名化し、また他の四家についてもその先例に倣う形で独立するようなことももしかしたらあったかもしれない。直弼としても、彼が何を望んでいるかは正確に把握していただろうから。
しかし、その夢がかなうことはなかった。直弼が暗殺されたことで忠央もまた失脚し、付家老二家による専横体制は崩壊することとなってしまったのである。

幕末動乱期の付家老たち

彼ら御三家付家老の五家が新政府によって大名に格上げされたことはすでに紹介したとおりだが、それでは、具体的に幕末の動乱期において、彼らはどのような行動を見せていたのだろうか。
一連のエピソードのおまけとして、簡単に追いかけてみよう。

成瀬正肥(なるせ まさみつ)は根っからの尊王派で、尾張藩の藩論を尊王へ統一することに尽力した。旧幕府と新政府が鳥羽伏見の戦いで激突した際にも御所の守りについているし、その後に続く戊辰戦争にも参加し、甲信地方を転戦している。
一方、同じ尾張藩付家老でありながら、竹腰正旧(たけのこし まさもと)は佐幕派であったため、大名にはしてもらったものの謹慎処分になり、所領1万石も没収されてしまう(その後、返却されている)。

南紀派として幕政にも関与した先出の水野忠央の子・忠幹(ただもと)は、第二次長州征伐で活躍し、「鬼水野」の通称を奉られた。また、鳥羽伏見の戦い後に紀伊藩が朝廷より疑いの目を向けられた際には、藩主に代わって出向き、釈明している。
安藤直裕は一度隠居したものの、幕末の動乱の中で幕府の命を受けて復帰、第二次長州征伐では全軍総督を命じられたのだが、戦いには敗れてあまり目覚しい功績は挙げられなかったようだ。
そして、中山信徴(なかやま のぶあき)は深刻な内紛状態に突入した水戸藩の取り締まりに奔走し、どうにか藩を残すことに成功する。

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