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【クーデターで読み解く日本史】悪女に惑わされた兄に反発した弟の戦い――薬子の変

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810年(弘仁元年) ○嵯峨天皇 ×平城上皇

壬申の乱以降長く続いた天武天皇系の皇統だったが、称徳天皇の死後に天智天皇系の皇統から光仁天皇が出て久方ぶりの交代ということになった。
その背景には道鏡の失脚にも関与したとされる藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原百川(ふじわら の ももかわ)の策動があったという。

さらに百川は光仁天皇の子を桓武天皇として即位させる。
この桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂らを派遣して東国の蝦夷を討伐させた人だ。しかも一方で、従来の平城京からまず長岡京へ、そしてこれが上手くいかなかったので改めて平安京へと遷都することによって新しい政治基盤を作るという二大事業を敢行した人物である。
これらの事業は財政的負担が大きすぎたせいでともに中断という結末を迎えたが、以後蝦夷による武力反乱はほぼ抑えられ、また平安京は千年にわたって首都であり続けることになった。

このような新しい政治の時代に大きな勢力を獲得した藤原式家であったが、「薬子の変」と呼ばれる事件によって衰退してしまうことになる。
この事件にその名を冠せられたのは藤原薬子(ふじわら の くすこ)という女性で、天皇に仕える女官である。彼女は藤原百川の甥・種継(たねつぐ)の娘であり、自身の娘を平城天皇の妃にしていた。平城天皇は彼女との間に男子を設けることを使命とされていた。彼の子にも男子が一応いたのだが、父の桓武天皇が結婚させた女性との間に男子は生まれていなかったためである。

薬子は娘が男子を産むのを祈りながら待てばよかったものを、とんでもない行動に出た。自身も平城天皇と結ばれたのだ。平城天皇が薬子を寵愛するのを見て、彼女の兄・仲成(なかなり)はこれを利用して一族の力を強めようとした。
そんな中、809年(大同4年)に平城天皇は病のためとして弟の嵯峨天皇に皇位を譲り渡した。こうして上皇となった彼だったが、政権をすべて弟に渡す気はなかったようだ。前の都である平城京に宮殿を建て、各国の政治をチェックする観察使を設置した。こんな状態で政治がまともに行われるはずもなく、「二所朝廷(にしょちょうてい)」と呼ばれる混乱状態に陥った。

嵯峨天皇は平城上皇のやり口に反対できなかったのだが、810年(弘仁元年)9月に平城上皇が都を平安京から平城京に移すようにと命じたことは看過できず、ついに兄との対決を決意する。
嵯峨天皇方は仲成を捕縛して薬子の官位を取り上げ、機先を制す。これに対して平城上皇も兵を挙げて対抗しようとしたがうまくいかず、仲成は殺され、薬子は自殺した。平城上皇も平安京に戻って出家し、大事件になる前に嵯峨天皇の勝利で終結することになる。
以後、平城上皇の家系から天皇が生まれることはなくなり、それまで藤原氏の中で主流派であった式家も衰退することとなったのである。

また、嵯峨天皇と平城上皇の対立の中で側近を必要とした天皇が設立した蔵人所(くろうどどころ)はその後も天皇の秘書的存在として重要な役割を果たし、さらに事件後に設置された検非違使(けびいし)は京の治安維持に活躍することになった。
これらの意味でも、薬子の変は重要なターニングポイントの一つといえる。

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