842年(承和9年) ○藤原良房 ×伴健岑・橘逸勢
兄との争いに勝利し、政治体制の確立に尽力した嵯峨天皇は、皇位を次代に継承した後、842年(承和9年)7月に亡くなった。すでに上皇の身ではあった(この時代は現代と違って天皇が存命中にその地位を退くことはめずらしくなく、結果として複数の上皇が並立することもよくあった)が、その存在感は大きく、このタイミングを狙って事件が起きる。承和の変だ。
嵯峨上皇が亡くなる5日前のことだ。
彼の兄である平城上皇(へいぜいじょうこう)の子・阿保親王(あぼしんのう)の下に、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)という二人がやってきた。
健岑は恒貞親王(つねさだしんのう=嵯峨上皇の弟・淳和上皇と嵯峨上皇の娘の間に生まれた子であり、時の仁明天皇の次に天皇となる皇太子)の護衛官で、逸勢は橘奈良麻呂の孫である。彼らは嵯峨上皇の死を契機に恒貞親王を立てて東国に入り、国家に反乱しようではないかと持ちかけた、とされる。
しかし阿保親王は話に乗らず、このことを知らせる手紙を嵯峨上皇の妻・橘嘉智子(たちばな の かちこ)に送った。
そこから仁明天皇(にんみょうてんのう)の知るところとなり、すぐさま健岑・逸勢の両名の下に兵が送られて逮捕と相成った。両者は拷間を受けたが口を割らず、結局「伴健琴が主犯のクーデター未遂」としてこの一件は処理された。二人をはじめとする事件の関係者たちには流罪が言い渡されている。
そして何も知らないうちに反乱軍のリーダー扱いにされてしまった恒貞親王は、皇太子の地位から引き摺り下ろされてしまった。
この事件については黒幕の存在がしばしば提唱されている。というのも、別に反乱など起こさずとも天皇になれるはずだった恒貞親王やその家臣である伴健岑にも、そして橘逸勢にも、わざわざ反乱を起こす動機が見当たらないのだ。
そして、この承和の変が起きたおかげで大いに得をした人物が一人いる。嘉智子の指示で阿保親王からの手紙の内容を仁明天皇に伝えた藤原良房(ふじわら の よしふさ)という人物だ。良房は藤原北家の出身で、父親の冬嗣は嵯峨上皇に重用された優秀な官吏であった。
この事件により恒貞親王が皇太子でなくなると、良房は自分の甥である道康親王(みちやすしんのう=後の文徳天皇(もんとくてんのう))を皇太子にした。この点から、良房こそが事件の黒幕であり、反乱未遂をでっち上げて自分にとって邪魔な恒貞親王を排除したのではないか、といわれるわけだ。
どちらにせよ、承和の変以後、良房の力は強まり、藤原北家もさらに栄えていくこととなる。
さらに良房は自分の娘と文徳天皇の間に生まれた子をまだ九歳であったにもかかわらず清和天皇として即位させてしまい、自身は摂政(幼少の天皇を補佐する役職)として、また外祖父として政治の実権を掌握する。
このやり方は養子の基経へ、そしてその子たちへ受け継がれていく。すなわち、自らの娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を新たな天皇とし、幼少のうちは摂政、長じてからは関白(成長した天皇を補佐する役職)として、政治を主導したのである。この立場を独占したのが藤原北家のうち摂関家と呼ばれた血筋であった。
そして、その摂関家誕生の大きな契機となったのが承和の変での良房の躍進だった、というわけである。