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【クーデターで読み解く日本史】父の無念を晴らすべく子が起こした騒動――享徳の乱

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1454年(享徳3年)~1482年(文明14年) ○足利成氏 ×上杉憲忠

鎌倉公方・足利持氏が永享の乱に倒れ、その遺児である春王・安王兄弟も結城合戦で捕らえられて殺されたのはすでに見てきたとおり。
しかし、持氏の四男である足利成氏(あしかが しげうじ)は兄たちとともに結城合戦に参加したものの助命されていた。そして1449年(宝徳元年)9月、鎌倉に入って鎌倉公方の座を継いだのである。

幕府としては不安定な状態が続く関東を治めるために新たな鎌倉公方を置いたのだが、これが逆効果だった。
成氏としては父の仇である関東管領・上杉氏への憎しみを抑えきれなかったようで、また鎌倉公方派と関東管領派で関東の武士たちが対立するようになり、むしろ混乱は加速した。1450年(宝徳2年)には上杉氏の家臣たちが成氏を襲撃、江ノ島で合戦が行われる事態にまで発展したのだが、この時には和睦が成立した。

破滅が訪れたのは1454年(享徳3年)の12月だ。成氏は関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を自分の屋敷に招き寄せると、謀殺してしまったのである。
これに対して憲忠の弟・房顕(ふさあき)が後を継いで成氏と分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)で激突したものの、敗れてしまう。

幕府としてもこの状況は放置できない。
そこで駿河の今川範忠(いまがわ のりただ)を上杉氏救援に派遣し、成氏を鎌倉から追い落とすことに成功した。さらに成氏に代わる鎌倉公方として足利政知(あしかが まさとも=時の将軍・足利義政の弟)を送り込んだのだが、関東の武士たちを従えることができず、また鎌倉がそもそも廃墟になっていたこともあって、伊豆の堀越に落ち着くことになった。

一方、鎌倉から逃れた成氏は下総の古河に入り、態勢を整えた。
これによって関東に二人の鎌倉公方が並び立ってしまったので、それぞれの本拠地を名前に冠して成氏は古河公方、政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれるようになった。両者の争いが一段落するには、1482年(文明14年)の和睦を待たなければならなかった。

しかしその混乱の中で上杉氏のうち扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)が本家筋である山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)に匹敵する勢力にまで成長。
関東の地は四つの勢力が合い争う舞台になってしまったのである。結果、全国に先駆けて戦国時代が到来した関東の地には、やがて北条早雲(ほうじょう そううん)を祖とする後北条氏が出現し、四つの勢力を撃破・支配してほぼ統一にまでこぎつけることになるのだった。

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