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【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

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1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年) ○徳川家康 ×豊臣秀頼

江戸幕府を開き、征夷大将軍となった徳川家康だったが、豊臣秀頼が目の上のたんこぶとして立ちはだかっていたのは事実である。
家康は征夷大将軍になってからわずか2年でその地位を息子の徳川秀忠に譲りつつ、自らは大御所として実権を掌握する体制を構築する。これは名目だけでもトップが交代することで「天下人としての家康の立場は、幼い秀頼の代わりに預かっているのではなく、徳川氏のものだから息子に譲るのだ」というアピールにほかならない。

逆に言えば、そのように示さなければならないほど、「秀頼が成長したら天下は豊臣氏のもとに戻り、徳川は再び屈服しなければならないだろう」と考えるものが多かったわけだ。
そこで家康は豊臣氏を挑発し、戦いへ持ち込む策を打った。いわゆる方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)がそれだ。

生前、秀吉は「京にも東大寺のような大仏を造りたい」と願い、1586年(天正14年)から大仏を作らせていた。これは一度完成したのだが、1596年(慶長元年)に起きた大地震で壊れてしまう。
秀吉の死後、この遺志を継いだ秀頼が改めて大仏制作を始め、1614年(慶長19年)に完成する。そこで、同年に大仏が設置されている方広寺の完工の儀を行うとし、豊臣と徳川の間で準備がされていた。

しかしここで問題が発生する。
方広寺の梵鐘に刻まれた言葉の中に「国家安康」「君臣豊楽」というものがあり、これについて幕府が前者は「家康の文字を分断している」、後者は「豊臣を君として楽しむ」で、それぞれ徳川を呪う言葉だ、といちゃもんをつけたのである。
これについては、当時の状況を考えれば徳川を刺激する要因を作らないよう注意するべきなのはむしろ当然であり、幕府が悪辣というより豊臣に警戒が足らないのではないか、という説をとるのが正当ではないかと思える。

ともあれ、この一件を機に両者の関係は急速に悪化。豊臣方が浪人を集め、また豊臣恩顧の諸大名に味方を呼びかけたのに対し、幕府も諸藩に命令して大坂城を包囲した。
この時、実際は豊臣氏に味方する大名は一人もおらず、すでに江戸幕府の支配体制がかなり確立していたことをうかがわせる。

こうして始まった大坂冬の陣においては、天下の堅城・大坂城と戦いになれた浪人衆の活躍で兵力に劣る豊臣氏がかなりの善戦を見せた。そこで家康は城に大砲を打ち込んで豊臣方をおびえさせる一方で和睦を申し込む。
戦いは終結したかと思ったが、ここに家康の作戦がある。和睦の条件に大坂城の二の丸・三の丸の破壊があり、二の丸を豊臣方、三の丸を幕府方が破壊する手筈となっていた。
豊臣方としてはできるだけ時間をかけて二の丸はそのままにさせようという狙いがあったようだが、三の丸を早々に壊した幕府方が手助けだといって二の丸も破壊してしまう。

こうして大坂城は本丸だけとなってしまい、堀も埋められてしまった。防御力のない丸裸の城になってしまったのだ。
これに怒った豊臣方は再び幕府に戦いを仕掛けた。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣の開戦である。

とはいえ、裸になった城で前回のような籠城はできないため、城を出て野戦を挑むしかない。
三倍の兵力を誇る幕府方の前に豊臣方は次々と敗れ、名のある武将も相次いで討ち死にした。戦いの最終局面においては豊臣方の浪人・真田信繁(幸村)が三度にわたる突撃を敢行し、家康の本陣にまで後一歩に迫る活躍を見せたが、やはり個人の武勇では兵力の差を覆しきれずに討ち死にする。
大坂城は燃え、追い詰められた秀頼とその母・淀殿も自害して果て、こうして豊臣氏は滅亡したのだった。

これを機に年号は元和と改められ、「元和偃武(げんなえんぶ)」の時代が到来した。偃武とは武器を伏せて収めることであり、つまり合戦のない泰平の時代のことである。
実際、これ以後は幕末の混乱期まで、合戦や暴動などがあっても局地的な、小規模なものにとどまったのだ。

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