1416年(応永23年) ○足利持氏と上杉憲基 ×上杉禅秀
室町時代を通じて問題になったのが鎌倉府の存在だった。
足利尊氏の血を引くプライドも手伝ってかしばしば幕府・将軍と対立する鎌倉公方、またそれを補佐する役職でありながらたびたび幕府方に立って公方と争うこともあった関東管領(上杉氏が代々世襲)らが火種になって内乱につながることが何度もあったのである。
4代将軍・足利義持(あしかが よしもち)の時代の1416年(応永23年)には、前関東管領・上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう、氏憲(うじのり))が時の鎌倉公方・足利持氏(あしかが もちうじ)を打倒するべく挙兵した。
事件の発端は禅秀の家人が持氏によって所領を没収されたことだった。これに抗議した禅秀が関東管領の職を解かれると、代わって上杉憲基(うえすぎ のりもと)がその地位についた。
実はこの二人は同じ上杉氏でも禅秀は犬懸上杉氏(いぬがけうえすぎし)、憲基は山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)の出身で、両者はライバル関係にあったのである。
ことここにいたって禅秀の不満が爆発。時の将軍・義持の弟で兄と対立していた足利義嗣を(あしかが よしつぐ)はじめとする諸勢力を集めて反乱へと踏み切ったのである。
10月には禅秀方の軍勢が持氏を襲い、かろうじて逃げ延びた持氏は憲基とともにこれに立ち向かうが、結局敗れて駿河の有力守護・今川氏のもとへ逃げ込むことになった。
結局、この戦いは年末になって幕府が介入すると収束へ向かい、追い詰められた禅秀が翌年1月に自決して終わった。また、義嗣は幽閉された後、2年後に殺害されている。
こうして事件は終わったが、この事件後にそれぞれ関東へしっかりと支配を根付かせたいと考えていた持氏と幕府の関係はむしろ険悪化し、後の永享の乱(えいきょうのらん)につながっていくのだった。