1399年(応永6年) ○室町幕府 ×大内義弘
南北朝の合一が果たされた後も、足利義満による守護大名統制の手は止まらなかった。
そこでターゲットにされたのが九州の有力守護大名、大内義弘(おおうち よしひろ)である。南朝との戦いおよび合一の仲介に奔走し、また明徳の乱でも活躍したことから、この頃には周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6ヶ国守護になっていた。
さらに彼の場合、重要だったのは、九州という対外問題の要地にあったことだ。対明貿易を模索していた義満にとって、すでに朝鮮との貿易を独占していた義弘は邪魔になりうる存在だったのである。
再三上洛を促す義満に対し、義弘もまた武力で応える決意をしたらしい。1399年(応永6年)に大軍を率いて堺まで上ったが上洛はせず、義満からの使者に対しては「将軍は正当な恩賞を与えず、むしろ自分から職を取り上げ、また攻め滅ぼそうとしている」と主張して謀反の意図を明らかにした。
さらに義弘の挙兵は単独行動ではなく、鎌倉公方(東北・関東を統治する機関の長)の足利満兼(あしかが みつかね)をはじめとして少なくない数の勢力が彼に味方したのである。
義満と義弘の戦いは堺を舞台に1ヶ月にもわたって繰り広げられたが、ついに幕府方の勝利に終わり、義弘は討ち死に。各地の反乱勢力についてもそれぞれ鎮圧され、満兼も関東へ引き下がっている。
こうして義満はまたしても有力守護大名の力を削ぎ、また対明貿易の主導権を奪われかねないライバルを排除することにも成功したわけだが、何もかもが完璧にうまくいったわけでもなかった。
戦後、大内氏に残された周防・長門2ヶ国守護の座は義弘の弟に与えられたのだが、後に彼は別の兄弟に倒され、幕府としてはこの人物を新たな守護と認めざるを得なかったのである。すなわち、有力守護大名を武力によって完全に支配下におこうという義満のもくろみはうまくいかなかったわけで、このことはその後の歴史を象徴する出来事といえる。
義満の時代は将軍が絶大な権力を持って有力守護大名を抑え続ける体制が機能したが、その跡を継いだ4代将軍・足利義持(あしかが よしもち)の時代以降は状況が変わる。有力守護大名たちが再び力を増して、幕府政治に発言力を持つようになったのだ。
そのため、室町時代はしばしば守護大名による合議制政治の時代だった、と称されるのである。その中でも斯波・細川・畠山は管領(将軍の補佐役)家として、また山名・一色・赤松・京極は、侍所所司(軍事機構の長官)家としてそれぞれ強い力を持ち、「三管四職(さんかんししき)」と呼ばれた。