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【クーデターで読み解く日本史】南朝の残党を隠れ蓑にした実力者の暗闘――禁闕の変

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1443年(嘉吉3年) ○室町幕府 ×旧南朝方

南北朝の動乱は3代将軍・足利義満の代に南北朝の合一で決着したが、この時に取り交わされた約束を義満が反故にしたため、南朝残党による反抗運動は継続していた。
たとえば大和永享の乱においても彼らの動きがあったのはすでに紹介したとおりだ。

そして1443年(嘉吉3年)9月、前代未間の事件が起きる。
禁裏の別名から禁闕の変(きんけつのへん)と呼ばれる事件だ。後鳥羽天皇の後裔を称する尊秀(たかひで/そんしゅう)と、名門日野氏の庶流で今は亡き義教との折り合いが悪かったという日野有光(ひの ありみつ)の二人が、南朝皇族の金蔵主(こんぞうす)・通蔵主(つうぞうす)兄弟を擁して、禁裏へ乱入したのである。

彼らの不穏な動きについては事件前から幕府方の知るところであったというが、襲撃対象を将軍の邸宅とする予測が外れたため、後手に回ることになった。
結果、時の後花園天皇は逃れて無事だったが、朝廷の権威を象徴する三種の神器のうち宝剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも)と神璽(しんじ=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))は南朝方によって奪取されてしまった。

しかし幕府方の動きも早かった。2日後には管領・畠山持国(はたけやま もちくに)率いる幕府軍が比叡山にこもった南朝方軍勢に対して出陣、比叡山も南朝方には味方せずむしろ攻撃したので、尊秀をはじめとする事件の首謀者たちはこの戦いの中で討ち取られるか、あるいは後に殺されてしまった。
奪われた三種の神器については、宝剣はすぐに発見されたものの、神璽については南朝方が持ち去ってしまい、1457年(長禄元年)まで朝廷に戻ることはなかったとされる。

この事件については、単純に南朝残党によるクーデターというだけではなく、より深い陰謀の影を指摘されることもある。
嘉吉の乱後に台頭した畠山氏を追い落とすために山名氏・細川氏らが密かに南朝残党を支援したといい、またやはり嘉吉の乱で滅亡した赤松氏残党が山名氏らの指示を受けて(赤松氏討伐に活躍し、その旧領を獲得したのが山名氏であった)禁裏襲撃に参加した、というのだ。

この説によるならば、禁闘の変とは南朝残党を利用した守護大名同士の暗闘であった、といえる。
このような事件が起きてしまうくらいに将軍の権威は低下しており、それはやがて来る破滅の前兆だったのである。

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