1441年(嘉吉元年) ○一揆 ×室町幕府
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱の直後にもう一つの大事件が起きる。
正長の土一揆の時と同じく将軍代替わりの徳政を求めて、京を舞台に大規模かつ組織的な一揆の武力反乱が巻き起こったのだ。嘉吉の土一揆だ。
数万ともいうこの土民たちは幕府軍を打ち破って京を完全に包囲して商業活動を麻痺させ、徳政令を要求した。
幕府方もその圧力に抗しきれず「土民に限って」の徳政令を決めたが、一揆方の要求はそれにとどまらず「武士や公家も含めた国全体の」徳政令で、ついに幕府にこれを飲ませた。
しかし、幕府が実際に発した徳政令は一部徳政を適用しない項目もあり、一揆方の要求を完全に満たしたものではなかった。
これは比叡山延暦寺の要請によるものであったという。当時、彼らの経済的基盤は多分に高利貸し資本によるところが大きく、完全な徳政令が発せられると経済的に破綻してしまうため、幕府に泣きついた、というのが真相であるらしい。
当時の幕府と延暦寺は非常に密接な関係にあり、これを退けることができなかったのだ。
さて、この一揆についてはあまりにも大規模であり、組織的であり、また幕府との交渉についても交渉慣れした人物が取りしきっていることが指摘されている。
そのため、正長の土一揆の時のような社会情勢に押された自然発生的なものではなく、別の動機を見る説もある。
先述したように足利義教死後の幕府を主導していたのは管領・細川持之(ほそかわ もちゆき)であるが、彼は高利貸しである土倉との関係が深かった。そこに目をつけた持之のライバル・畠山持国(はたけやま もちくに)が一揆を先導し、持之にダメージを与えようとしたのではないか、というわけだ。
ともあれ、土民たちの要求に不完全な形であれ従うしかなかったという意味でこの事件の影響は大きく、幕府と将軍の威信はさらに低下していったのである。