攻城団ブログ

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大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

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昨夜は攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉を配信しました。
年末の慌ただしい中で長時間視聴してくださったみなさん、ほんとうにありがとうございました。

長時間と書きましたが、なんと約9時間半もやってました。1年前の「日本100名城一気語り」が8時間半弱だったので記録更新です。
事前の打ち合わせがだいたい2時間半だったので、榎本先生にはせいぜい倍の5時間くらいかなと話していたのですが(先生は8時間は覚悟してるとおっしゃってました)まさかそれをこえるとは。途中、披露を隠せなくなってるかもしれませんが、番組自体は楽しく進行できたと思うのでぜひご覧ください。

今回は企画から資料作りまですべてぼくが担当したのですが、この10年くらいで家康の研究がすごく進んでるらしいので、今回最近出た本を中心に何冊か読みました。
ただ「何冊か本を読んで調べてきました」と話すだけではおもしろくないので、榎本先生に付き合っていただいて徳川家康の生涯を振り返りながら、その時々の選択は正しかったのか、ほかの選択をしていたらどんな可能性があっただろうということをいっしょに語り合う内容にしました。

番組でも話したとおり、戦国武将は選択の連続です。何度も訪れる重要な選択をひとつでもまちがえたらお家滅亡なんてことも多々ありました。
そういう意味も「どうする家康」という今回のタイトルは見事だと思うのですが、じつは若い頃の家康は自分で主体的に選ぶことはできなくて、周囲によってつくられた状況により、一択しかない状態に追い込まれることの繰り返しです。

たとえば今川家を見限って織田信長と同盟を結ぶ――いわゆる清洲同盟のことですが、じつはこのとき長尾景虎が関東に侵攻していたため、今川氏真は西三河の家康よりも北条家支援を優先したため、独自の兵力では信長に勝てない家康は和睦・同盟を余儀なくされます。
氏真が嫌いとか信長が好きといった「情」ではなく、氏真は頼りにならないので信長方につかざるを得ないという「理」での選択です。
こんなふうに「別の選択はそもそも可能だったのか」という観点でも話をしています。

なお番組の最初ではぼくが子供の頃に出版された「学研まんが人物日本史 徳川家康」をもとに従来説と最新学説を紹介しました。

kojodan.jp

今川家に行くはずだった竹千代が奪われて織田家の人質になったとか、今川義元が上洛しようとしていたとか、桶狭間の戦いは奇襲だったとか、40年以上前に出た本なので現在では否定されている説が多く採用されています。

番組で使用したスライドを並べておきます。赤字はぼくのメモです。

そのあとあらためて家康の生涯を振り返りつつ、分岐点になったかもしれないポイントをいくつかピックアップして榎本先生とあれこれ話をしました。
これも詳しくは動画を見ていただきたいのですが、事前に用意したあんちょこを貼り付けておきますね。ちょっと長いですがご容赦ください。

どうした家康 進行用の年表

プロローグ)松平家の歴史=家康誕生前後

松平氏は家康の祖父・清康の時代に飛躍、安城から岡崎へ

しかし清康が阿部弥七郎に殺される(守山崩れ)と衰退

→背景には織田家内の争いに松平一族も巻き込まれたか

広忠は桜井松平信定に三河から追放され、今川氏を頼って帰還を果たす

水野信元が織田信秀についたので、今川への忠義を示すために於大の方と離縁
→離縁の理由は別の説もあるが、いずれにせよ政略結婚
その後、広忠は田原城の戸田康光(初名は宗光で松平清康の偏諱を受ける)の娘を娶る

今川義元が助けなければ松平家は広忠の代で滅亡していた

義元の評価は昔の公家趣味のダメ大名から優秀な人物に改められてきたけどそれでも悪役感が強い。

でもじっさい義元がやったことはいわゆるホワイトナイトでいい人(戦国大名の範疇でだけど)

1547年(天文16年)、6歳

織田家の人質

@戸田康光の裏切りで拉致されたのではない。織田に降伏した広忠が差し出した

→ただし日記を書いた日覚は当時越中にいたので伝聞

その後、今川義元の三河侵攻に伴い、あらためて広忠は今川方に(嫡男を見捨てた?)

尾張人質時代がなかったとする説もあるとか

1549年(天文18年)、8歳

父・広忠が死去

→最近は岩松弥八による暗殺ではなく病没説もあり

「生母とはすぐに離別し、幼少時に父も暗殺されてしまったので兄弟がいません。」(狸親父さん)

弟・信勝は殺したけど、お市や有楽斎など兄弟が多かった信長

右腕として生涯自分を補佐してくれた秀長や家康に嫁いだ朝日姫がいた秀吉

広忠の死により、今川家の三河支配が崩れる可能性

家臣団は今川に義理はなく、竹千代がいる織田家に寝返るかも

→松平家の家臣団は今川義元に助けを求める

太原雪斎が安城城を攻略、生捕りにされた信広と竹千代を交換、そのまま竹千代は駿府に

1555年(天文24年)、14歳

3月、14歳で元服して元信

今川義元から偏諱を賜う

@今川家での家康は松平家当主として英才教育された、VIP扱い

→そもそも当主の立場なので人質という表現はおかしい

→逆張り的に「家康は普通の人、凡人」という評価もあるけど、それなりに優秀だったから義元は一門扱いにしたはず

1556年(弘治2年)、15歳

関口義広(親永または氏純)の娘(築山殿/瀬名姫)と結婚。今川義元の姪っ子。一門扱い

築山殿の妹が嫁いだのが北条氏規=家康と相婿の関係(三国志なら大喬小喬と結婚した孫策と周瑜)

氏規は今川氏真に嫁いだ早川殿が幼かったため代わりに人質として送られてきた

今川義元はふたりを氏真を支える立場にしようとした?

1558年(永禄元年)、17歳

17歳で初陣。寺部城の城主・鈴木重辰(しげとき)が織田方に寝返ったので攻めた。夜討ち、奇襲で勝利

これを機に「元康」に改名

1559年(永禄2年)、18歳

信康誕生

1560年(永禄3年)、19歳

亀姫誕生

5月、桶狭間の戦い

@今川義元の目的は上洛ではない

→三河安定化、尾張侵攻

状況によっては織田家を滅ぼして尾張を制圧する気があった?

@奇襲ではなく正面攻撃

ではなぜ寡兵の信長が勝てたのか?

今川方は野営のため雨で火縄銃が使えず、低体温で兵が動けなかった

織田方は砦で休息していたので火縄銃も使えた

5/19なのに降雹、氷雨。異常気象

@大高城の兵糧入れ

陸路ではなく海路説がある。大高城の守将を朝比奈氏から鵜殿氏に交代させたのは、鵜殿氏は熊野出身だから

→ただし史料の裏付けが乏しい、三河水軍はあったのか

なぜ前日にリスクを犯して兵糧を?

→弾薬では

夕方に外伯父・水野信元からの使者で義元討死の知らせと大高城の退去勧告

夜に大樹寺に移動して今川方の岡崎城撤退を待つ

23日に岡崎城に入城、4日も待っている

→死のうとしたとか「厭離穢土欣求浄土」のエピソードは創作か?

大樹寺の「大樹」=将軍の意味らしい(磯田先生の話)

今川から独立する?

岡崎城主・元康を氏真が容認(岡崎復帰)

→もう19歳だし、もともと間接統治だったしな

元康は西三河の平定に乗り出す

8月、長尾景虎の関東侵攻があり氏真は北条の支援を優先して元康の西三河への支援ができなかったのも離反の一因
→信長との同盟を前提にした独立なのは事実だけど、そもそも今川が当てにならないから離反した

1561年(永禄4年)、20歳

2月、清洲同盟

元康の伯父に当たる水野信元を通じて起請文を取り交わす

@元康が清洲城に出向いて会見したという説は現在は否定されている

とはいえ戦国時代には珍しく信長が死ぬまで堅持された同盟関係であることは事実

信長と同盟を結ぶ?

将軍義輝への馬の献上

信長や氏真よりも早く贈っている=将軍と近づきたい、直接繋がりたいという思惑

東三河への侵攻=三河錯乱、三州忩劇(そうげき)

今川氏からの離反=「岡崎逆臣」

1562年(永禄5年)、21歳

上之郷城を攻めて鵜殿長照(氏真のいとこ)を討ち取り、息子を生け取りに

→人質交換で築山殿と信康、亀姫を取り戻す

1563年(永禄6年)、22歳

信康と信長の次女・徳姫との婚約が成立(婚姻は4年後の1567年)

7月、家康に改名

「家」の字は源義家からか? 中国の書物由来説などもあり、よくわからない

大河はおもしろい解釈(多分プチ炎上する)

三河一向一揆

ただし一向宗(浄土真宗)の中でも本願寺派の門徒に限られた(他の派閥は参加していない)

一揆の原因は2説あるがおそらく1のほう。わざわざ家康から争いを起こす理由がない

1)一向宗寺院への兵糧米の徴収=不入特権を侵害した

2)家康が水運など本願寺教団の既得権益に介入した

家臣団が二分されて戦うことに

本多正信を除き、基本的に各家の嫡流は家康方についた(これも一族内の下剋上か?)

@一向一揆像の見直し

現在伝わる「死をも恐れぬ」といった過激派のイメージは江戸時代に西本願寺と東本願寺が武勇伝をPRし合った結果

1565年(永禄8年)、24歳

2月に一揆勢と和睦、しかし家康は和睦条件(一揆参加者の赦免、不入特権の保証)を反故にする

本多正信らほとんどの者は追放、本願寺教団から離反しない寺院は破却

「三河物語」では起請文の「前々のごとく」を更地という意味に曲解

東三河への再侵攻と三河平定

国衆の調略も行い、奥平氏や戸田氏などを従属させた

5/19、永禄の政変で足利義輝が暗殺された

興福寺を脱出した覚慶の御内書に家康も反応している

1566年(永禄9年)、25歳

5月、牛久保城の牧野成定が降伏して三河統一(ただし一部は織田領、水野領)

!序盤は時間がかかる

信長の尾張平定の年齢=31歳(1552年~1565年の14年)

※弟・信勝と岩倉織田家を滅ぼした1558年あたりでほぼ統一していたと考えれば約6年

家康の三河平定の年齢=24歳(1561年〜1566年の6年)

今川氏真はなぜ進攻してこなかったのか

同時期に家臣団の離反が起きていた=遠州忩劇(そうげき)

1563/12〜1565/12と丸2年

@結果論だけど家康は三河一向一揆との戦いや、関東移封などドラスチックな変化を家臣団の再編成にうまく利用している

三河統一後、家康は三備の軍制を編成した

家康直属部隊、東三河=酒井忠次、西三河=石川家成

他の戦国大名と同様に家康も寄親寄子制を採用

三河三奉行は真偽不明

12月、従五位下三河守に叙任される、徳川に改姓(復姓?)

前年の永禄の政変により将軍不在だったので近衛前久を通じて朝廷に直接奏請

正親町天皇は松平氏では前例がないと難色を示す

→三河守に任官するためには源平藤橘

徳川氏と藤原氏との関わりを示す家系図をでっち上げて勅許を得る

→清康の時代から新田源氏を名乗っていたとも

1586年(天正14年)まで家康は「藤原家康」を名乗っていた

→1588年(天正16年)の聚楽第での起請文には「源家康」と署名している(この年かその前年に本姓を源に戻した)

1568年(永禄11年)、27歳

1558年(永禄元年)頃から織田と武田が同盟を模索、1565年(永禄8年)に成立

織田は斎藤、武田は今川を攻めるために遠交近攻政策の一環

→これが元で武田家は嫡男・義信がクーデターを起こす(義信の妻は今川義元の娘)

今川氏真は上杉謙信との同盟を模索

家康は今川と武田が同盟を維持している間は攻められなくなった(織田の同盟相手の同盟相手なので)

12月、信玄の駿河侵攻にあわせて家康も遠江に侵攻。この背景には密約があったと考えられている

おそらく織田武田同盟の流れで交渉と了解があったのではないか

12月を選んだのは謙信が出陣できないから

信玄の駿河侵攻は当初は順調だったが、北条が援軍を送ったため撤退

家康の遠江侵攻は順調に進み、井伊谷三人衆や高天神城の小笠原氏などを服属させた

さらに駿府館を追われ掛川城に入っていた今川氏真を囲んで和睦へ(実質的には降伏させる)

1569年(永禄12年)、28歳

6月、北条と上杉の同盟=越相同盟。景虎が養子に

これって武田は周囲すべて敵になってないか? 武田包囲網?

北条氏康の死により、北条家の外交政策が転換される=甲相同盟

→北条家内部の話として、氏康は娘を嫁がせた今川に協力的で、氏政は嫁の実家の武田に好意的

武田信玄は北条との同盟締結により西進が可能になった

1570年(元亀元年)、29歳

4月、金ヶ崎の退き口

6/28、姉川の戦い

6月、信長の勧めで浜松城を築いて移る

10月、上杉謙信と同盟を模索。武田家臣・秋山虎繁による遠江侵攻という約束違反による不信感から

1572年(元亀3年)、31歳

義昭から家康へ状況を心配する御内書

御内書原本は不明だが、11月に側近の朽木輝孝宛の返書が残っている

@つまりこの時点では義昭は信長・家康側にいて、信玄の西上作戦に義昭は関わっていない証拠

→信長包囲網の再検討が必要。そもそも信玄の出陣は上洛目的だったのか?

12月、三方ヶ原の戦い

二俣城の落城後、浜松城へ進軍。ただし素通り

被害の大きい攻城戦を避けて野戦を誘った信玄と、誘いに乗って大敗した家康

信玄はその後、野田城を攻略したところで病状が悪化。翌年4月、甲府への帰路で死去

なお勝頼陣代説は最近の学説では否定されている(正統後継者扱い

三方ヶ原に出陣する?

なぜ籠城しなかったのか?

→信長から(少ないとは言え)援軍を送られていて籠城するわけにはいかない?

なぜ信玄は追撃して浜松城を落とさなかったのか、多少の犠牲を払えば十分可能だったはず

→理由は不明だが、家康は運がいい

!しかみ像

三方ヶ原の戦いでの敗戦を戒めるためというのは嘘

→ 尾張徳川家の養嗣子・徳川治行(はるゆき)の正室で紀伊徳川家出身の従姫(よりひめ)の嫁入り道具説

1573年(天正元年)、32歳

2月、義昭が信長と対立し離反

信玄が信長・家康に勝利したことが離反を後押ししたなら「3年間秘匿せよ」と信玄の死を公表しなかったことが災いした?

→いちおう離反時は信玄も生きてるか。そもそもこの時代に死を秘匿するような情報コントロールは可能なのか?(葬式しないだけで信じる?)

義昭は朝倉・浅井に御内書を出して信長討伐を促す

けっきょく義昭は追放、朝倉・浅井は滅亡へ

義昭の誘いに乗る?

5月、家康は駿河に侵攻、武田方の反応を見て信玄の死去を確認

9月には長篠城を落とす

1574年(天正2年)、33歳

勝頼の軍事行動が活発になる。東美濃、奥三河が武田領に

6月には高天神城が落城。信長の援軍は間に合わず

1575年(天正3年)、34歳

大岡弥四郎事件。信康を担いでのクーデター

未然に発覚して、弥四郎は鋸引きの極刑

3月に信長は家康に兵糧2000俵を送る、家康は長篠城へ300俵を入れる

5月、長篠の戦い

5/1、長篠城が包囲される

5/13、信長岐阜から出馬

5/18、有海原(あるみはら)に布陣、従来「設楽原」と呼ばれてきた場所だが『信長公記』や『三河物語』にはこの記述

@鉄砲三千挺、三段撃ちは嘘。少なくとも『信長公記』には千挺

@武田騎馬隊も話半分に。馬は臆病な動物なので鉄砲が鳴り止まない戦場で動けるか?

戦後、武田家に奪われた遠江の諸城を奪回する

二俣城、光明城、犬居城、諏訪原城(牧野城に改名)

高天神城と小山城以外はほぼ奪還

1578年(天正6年)、37歳

3月、上杉謙信死去、御館の乱

→甲相同盟が破綻

9月、家康は北条との同盟復活(相遠同盟)

→北条と武田の関係が悪化したので、北条との同盟が結べた

1579年(天正7年)、38歳

信康事件。正妻と嫡男を失う

→『家忠日記』を除いてほぼ記録が残っていないのは家康にとって汚点だからか

嫡男信康を殺す?

従来説は信長の娘の徳姫が父に密告し、使者の酒井忠次が弁明できずにやむを得ず殺した

@近年の研究では信康の粗暴さと徳姫との不和が原因で、家康は調停を図ったがうまくいかず酒井忠次を使者として信長に信康処断の許可を求めたとする、あくまでも家康自身による判断

浜松派と岡崎派、外交路線(織田か武田か)をめぐって家臣団の対立はあったのか

→大賀弥四郎事件後に粛清されてるから浜松派に対抗できるような派閥はなかったのでは

→事件に連座して名のある家臣が処罰されていない

ただ武田に通じての謀反の動きは築山殿や信康にあったかもしれない

1580年(天正8年)、39歳

高天神城の奪回

→北条との戦いが激化して勝頼が援軍を送れなくなっていた

1575年(天正3年)頃から信長と家康の関係は対等ではなく、明らかに目下、織田一門の武将扱いに

高天神城からの降伏勧告に対して信長は拒否を指示(最終判断は家康に委ねる)

→家康は降伏を受け入れなかった

→結果として、信長の目論見通り勝頼は信用を失い、滅亡の原因となる

1581年(天正9年)、40歳

3月、高天神城を攻略して遠江を平定

1582年(天正10年)、41歳

2月、武田領への侵攻。家康は駿河口から

2/18に浜松城から出陣、3/4に降伏した穴山梅雪と対面

3/11に勝頼が自害、武田家は滅亡

3/29、論功行賞。家康には駿河国の武田領すべてが与えられる。三河、遠江、駿河の三カ国大名に

→信長から知行を与えられたことにより家臣の立場が強まる

4/10、信長は甲府を出立、東海道を通って帰国

4/13江尻城、4/14田中城、4/15掛川城、4/16浜松城、4/17吉田城、4/18知立城に寄って、その後清洲城、岐阜城を経て安土城へ

家康は休憩所や食事にも万全を尽くした

領内で信長を殺す?

5月に安土城を訪問、その後信長の勧めで京都・大坂・堺の見物へ

5/29、家康は堺に入り、翌6/1に津田宗久の茶会に参加

6/2、京に戻ろうとしていたところ、本能寺の変について茶屋四郎次郎から聞く

家康は当初、そのまま上洛して知恩院で追腹(殉死)することを考えたが家臣に説得された

三河に戻るために伊賀越え

別行動を取った穴山梅雪は落武者狩りにあって討たれる

伊賀越えする?

6/5、岡崎城へ帰着

6/14、弔い合戦のために出陣(山﨑の合戦は6/13)

6/19、秀吉から山﨑の合戦の勝利と帰陣の要請があり、津島から軍を返して6/21に浜松城へ

天正壬午の乱

家康は甲斐・信濃へ軍勢を送って平定を進める

若神子城に着陣した北条軍と対峙、その後10/29に和睦する

→この和睦の条件で真田氏が支配する沼田領を北条氏の領土としたことがのちに問題に

家康の次女・督姫を氏直の正室として同盟を結ぶ

家康は甲斐と南信濃を加えて五カ国大名に

多くの武田旧臣も取り込む

→井伊の赤備えなど軍事面の強化、大久保長安などの有能な代官も獲得

北条氏と同盟を結ぶ?

織田家内での権力争い

織田信孝・柴田勝家 vs 織田信雄・羽柴秀吉の対立。勝家の誘いを断り、家康は信雄・秀吉方に

→戦勝祝いとして秀吉に初花肩衝を贈っている(このとき石川数正が初めて秀吉と会うと、その後も使者に)

賤ヶ岳の戦いを経て、今度は信雄と秀吉が対立

翌年正月、家康は信雄と会見

信雄を支持する?

北条と同盟を結んだ家康に関東惣無事の役目は果たせない

佐竹氏や宇都宮氏など反北条の大名は直接秀吉に取り入ろうとする

1584年(天正12年)、43歳

小牧・長久手の合戦で家康は信雄方に

当初は北伊勢あたりが戦場になると予想されたが、美濃の池田恒興らが秀吉方についたため(犬山城を攻略)、尾張が戦場に

家康は小牧山城に本陣を置く

兵力差は信雄・家康軍は1万5〜6千、秀吉軍は6〜10万と圧倒的

秀吉は別働隊に岡崎城を攻めさせる三河中入りを決行。家康は追撃、急襲して壊滅させる

その後は大きな合戦はなく、最終的に信雄と秀吉は和睦(和睦とはいえ立場は逆転)

家康も次男(のちの結城秀康)を人質として出すことに。石川数正の子(のちの石川康勝)と本多重次の子(のちの本多成重)が付き従った

秀吉と和睦する?

1585年(天正13年)、44歳

第一次上田合戦

@徳川・北条の和睦の条件(領土協定)は「切り取り次第」だったので、上野国沼田領について北条氏は真田から奪い取らなければならなかったが、真田昌幸は矢沢頼綱に沼田城を死守させる

家康は対上杉の最前線とするため、上田城の築城を支援している

しかし督姫と氏直の婚姻が成立して同盟が結ばれると徳川・真田の関係は悪化する(氏直が家康に沼田城・岩櫃城の引き渡しを要求してきたため)

家康からの引き渡し命令を昌之は拒否、徳川から上杉に乗り換える

閏8月に上田城攻めが行われるが、徳川方の大敗

井伊直政が増援部隊として派遣されるが石川数正が出奔したため撤退する

→真田昌幸も運がいい

石川数正は秀吉との外交路線の対立から孤立。融和派の数正に対し、酒井忠次や本多忠勝など強硬派が家中では圧倒的多数を占める

→同じことが大坂の陣の片桐且元にも言える

そもそもは家康が上洛しないから

秀吉との対決を覚悟して、岡崎城など領国内の城を改修する、軍制を武田家のものに改める、三河国衆の人質(妻子)は岡崎から浜松へ避難させる

11月、秀吉による家康成敗が計画された(翌年正月に実行予定)

しかし11/29天正大地震により中止

三河より畿内・尾張・美濃・北陸など秀吉の勢力圏内の被害の方が甚大だった(三河では松平家忠が城普請を継続している)

これにより秀吉は家康に対して融和政策に方針を転換していく

@天正大地震がなければ徳川家は滅亡していた可能性が高い

1586年(天正14年)、45歳

織田信雄が間に入って和睦成立。旭姫が家康の後妻に

10月、家康はついに上洛して秀吉に臣従する(豊臣大名化)。正三位権中納言に叙任

上洛する?

9/11、居城を浜松城から駿府城に移す

対秀吉の意味もあるだろうけど、両国が広がったことに伴いより中心の駿河に

1587年(天正15年)、46歳

8月、家康は九州平定した秀吉を祝うために上洛。従二位権大納言に叙任

1588年(天正16年)、47歳

5月、家康から北条氏政・氏直親子に起請文を送る。その内容は、氏政の兄弟衆が上洛して秀吉に臣従の意を示すか、氏直に嫁いだ督姫を返すか(手切れを意味する)

北条氏内部では、融和派の氏直・氏規と、強硬派の氏政・氏照の対立があった

8月、氏規がようやく上洛を果たす

1589年(天正17年)、48歳

秀吉の裁定により沼田領問題は解決へ。2/3を北条領として、替地として家康は真田家に箕輪領を与える

ところが10月、沼田城主となった猪俣邦憲が名胡桃城を奪取するという事件が起こると、真田信幸→家康→秀吉と報告され、秀吉は激怒した

12月に入ると秀吉は北条氏討伐を計画

1590年(天正18年)、49歳

2月、小田原攻めのため家康は駿府から出陣

7/5、降伏開城。戦国大名北条氏の滅亡

氏直・氏規は高野山へ追放。氏規の子孫が狭山藩主に

→家康と氏規は縁がある

関東移封を拒否する?

@家康の関東移封は豊臣政権による「関東・奥両国惣無事」政策の一環

10万石以上の家臣はその知行高や入封地について秀吉が指示した

→井伊直政=上野箕輪12万石、榊原康政=上野館林10万石、本多忠勝=上総万喜(まんぎ)10万石

江戸は上方から東海道を経て、奥羽へ向かう交通の要衝

秀吉の家康への絶大な信頼の裏返し

奥羽仕置に家康も宇都宮まで同行

次男・秀康が結城氏の跡目を継義、10万1千石が与えられた

1590末〜1591、東北で一揆が頻発。家康も平定のために出陣

1591年(天正19年)、50歳

関白秀次の誕生

→鶴松の死去と唐入りに専念することが目的か

1592年(文禄元年)、51歳

朝鮮出兵、文禄の役

家康は名護屋に滞在、江戸の留守居は秀忠

1593年(文禄2年)、52歳

8月、淀殿が拾(のちの秀頼)を出産したため、秀吉は大坂城へ帰る

家康を含む渡海しなかった大名が伏見城の普請を担当

家康も翌年上洛し、10月に江戸へ戻った

1595年(文禄4年)、54歳

7月、豊臣秀次が高野山へ追放、切腹(秀次事件)

@自ら切腹したのか、秀吉の命によるものかは諸説あり

病の秀吉が起請文を提出させる

秀頼を頂点とした体制の構想=在京を原則とした体制=室町幕府を踏襲

→江戸幕府が当初、豊臣政権ほどの支配力がなかった証拠か

1596年(慶長元年)、55歳

秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は「江戸の内府(だいふ)」と呼ばれる。

1597年(慶長2年)、56歳

再出兵、慶長の役

1598年(慶長3年)、57歳

8/18、秀吉死去。63歳

五大老・五奉行は秀吉の死去を伏せたまま朝鮮からの撤退を指示する

1599年(慶長4年)、58歳

1月、家康の六男・忠輝と伊達政宗の長女が婚姻、福島家・蜂須賀家には幼女を嫁がせる約束

秀吉が晩年に決めた体制を家康は段階的に反故にしていく

閏3月、前田利家死去。家康の影響力が増大(元々は利家が大坂城で秀頼を補佐、家康は伏見城で政を行う役割分担)

石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居

9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く

1600年(慶長5年)、59歳

前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ

細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ送る

五大老五奉行体制は形骸化。家康は大坂城において単独で権限をふるい、前田・増田・長束の三奉行が支える体制

4月、家康は上杉家に上洛と弁明を求める最後通告。その返事が直江状とされる

@直江状はあったのか?→捏造説も

6/16、家康が大坂城から出陣。7/2に江戸に入る

7/19または20に上方で三成挙兵の報告が入るが予定通り21日に江戸城から出馬

7/25、小山評定開催

@小山評定はあったのか論争

会津征伐を続ける?

8/5、家康は江戸城に戻る

9/15、関ヶ原の戦い

@合戦の場所、問鉄砲の有無(小早川秀秋が裏切ったタイミング)、松平忠吉の抜け駆けの有無、など論点があるらしい

9/25、毛利輝元が大坂城を退去

9/27、家康は大坂城へ入り、秀頼に戦勝報告

@あくまでも豊臣政権内部の政争

論功行賞。豊臣系大名は大幅加増となるも遠方へ。畿内と江戸を結ぶ東海道や要衝には重臣や一門を配置(結城秀康=越前北庄、松平忠吉=尾張清洲、本多忠勝=伊勢桑名、井伊直政=近江佐和山など)

→徳川家臣は秀頼から見れば陪臣なのに?

その後も大坂の陣や島原の乱などは起きたが、国内を二分するような戦いは幕末までなかった

勝利後に豊臣家を滅ぼす?

1603年(慶長8年)、62歳

征夷大将軍に任官、右大臣に昇任

それまでは諸大名の年始の挨拶も大阪城の秀頼が先で、伏見城の家康へはその後

家康自身も前年までは大坂城へ訪問していたが、将軍就任後は行かなくなった。諸大名も秀頼への挨拶を控えるようになっていった

7/28、家康の孫娘・千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ

1605年(慶長10年)、64歳

秀忠に将軍職を譲る。徳川氏による世襲を天下に知らしめる

隠居する?

1607年(慶長12年)、66歳

駿府城に移り、大御所政治開始

→二元政治と呼ぶほど拮抗してなくて、家康側に圧倒的に権力が保持された。秀忠の大名支配は関東・東北に限定されており、鎌倉府みたいなもの?

この時期の日本の中心は江戸ではなく駿府

1611年(慶長16年)、70歳

二条城で秀頼と会見(豊臣家が徳川家に臣下の礼をとったことを世に示す)

これで徳川が豊臣に対して優位に立ったことが確定的に

しかしその後も豊臣家は特別待遇されていた

・大坂の陣まで親王や公家衆は年賀の挨拶に下向していた

・外様大名に課された御手伝普請が免除されていた

→徳川幕府として扱いに困っていた

朝廷との関係が切れていない以上、関白秀頼の可能性は十分残されていた

→滅亡させるかはさておき、大坂城から退去させて並の外様大名にしておきたい

1614年(慶長19年)、73歳

方広寺鐘銘事件。呪詛の意図はなかったにせよ、事前に相談し承認を得なかった豊臣方の落ち度

福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸に留置

1611年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長死去と仲裁してくれる有力大名がいなくなっていた

大坂城には牢人が集まり籠城軍は10万に

11月、20万人の徳川方が大坂城を包囲、大坂冬の陣

大坂冬の陣で和睦する?

和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る

@外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる

1615年(元和元年)、74歳

5月、大坂夏の陣

5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅亡

秀頼と千姫には二人の子がいたが、嫡男・国松(8歳)は六条河原で斬首、長女(7歳)は鎌倉の東慶寺に出家

閏6月、一国一城令

@一国一城令は元々法令として交付されたものではなく、毛利・島津・黒田など西国大名に対して酒井忠世・土井利勝・安藤重信3人の連署奉書で個別通達されたものだが、受け取ってない大名も忖度して城を破却したらしい

7月、武家諸法度・禁中並公家中諸法度・諸宗諸本山諸法度の交付

→武家、天皇・公家、寺院を幕府が支配

1616年(元和2年)、75歳

4/17、家康死去

@死因は胃がんか。鯛の天ぷらの食べすぎとかはウソ 

まとめ

まとめとしては、家康がなぜ天下人になれた最大の要因は「運」と「長寿」だろうというのがぼくの結論です。
2022年のイグノーベル経済学賞を受賞したのが「なぜ最も才能のある人ではなく、最も幸運な人が成功することが多いのかを数学的に説明したことについて」という論文なのですが、能力を持っていても必ずしも成功はしないし、能力よりもむしろ「運」こそが成功不成功を大きく左右するという指摘は戦国時代にも当てはまると思いました。

天正大地震が起きなければ間違いなく秀吉に滅ぼされていたでしょうし、三方ヶ原の戦いの際も武田軍がそのまま浜松城を攻め落としていれば家康の命はなかったでしょう。あるいは御館の乱の際に武田勝頼が上杉景勝を支持したために武田家と北条家の関係が悪くなり、その結果として徳川=北条同盟(相遠同盟)のチャンスができたというのも含め、家康は天災や気まぐれ(もしくは他の理由がより優先されたため)、第三者の行動よるバタフライ効果といった感じで「ラッキーな人だな」と思うことが多々ありました。
もちろんこれはぼくらがのちの歴史を知っているからこその結果論なのかもしれませんが、それにしても運を味方につけているとしか言えないことが何度も起きています。

あらすじを読んだかぎりでは大河ドラマ「どうする家康」は最新研究はそれほど反映されていないように感じました。
でもドラマはドラマとして割り切って楽しんだらいいと思います。
むしろ個人的にはあえて家康と築山殿(瀬名姫)をラブラブの設定にしてきたところに注目しています。信康事件のこともあり、おそらくネガティブキャンペーンの結果として悪女扱いされている築山殿のイメージが変わるきっかけになるかもしれませんね。

攻城団でも今年は「どうする家康」に思いっきり乗っかっていくつもりです。
すでに昨年末から「家康の城」「家康の謎」といった関連コラムを掲載しはじめていますが、ほかにもまだまだ読み物や動画などを企画していますので楽しみにしていてくださいね。

blog.kojodan.jp

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参考文献

攻城団ライブラリーから徳川家康関連本を引っ張り出してきました。

さすがにぜんぶは読めなかったのですが、大河ドラマ関連本の「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康」と「どうする家康 前編」のほか、とくに本多隆成先生の「徳川家康の決断-桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択」がとても参考になりました。
柴裕之先生の「徳川家康:境界の領主から天下人へ (中世から近世へ) 」もすごく勉強になると思いつつ、途中までしか読めなかったので継続して読んでるところです。

kojodan.jp

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徳川家康のマンガはほかにも何冊か買い足したので、あらためて読み比べなどをしてみてもいいかもしれないですね。

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