2月27日(月)の夜、攻城団テレビでたかまる。さんとライブ配信をおこないました。
前回の「家康の城」は全6回、今回の「家康の合戦」はそれを上回る8本の記事を書いていただきましたが、あらためて全8回で取り上げた〈徳川家康の合戦〉を振り返りつつ話しました。今回は3人でのトークのテストもしたかったので榎本先生にも参加していただきました。
ちょっと音がハウリングしてて聞きづらいところもあるかもしれませんが、個人的にはかなりおもしろい話をしていると思うので見ていただけるとうれしいです。
(ハウリングの理由はたぶんぼくのピンマイクが手前のスピーカーの音を拾ってるんだろうけど、ひさしぶりのライブ配信でうまく対処できませんでした)
歴史に学べる人、徳川家康
徳川家康という人物はエピソードも多いし、また長寿だったこともあり、それこそ山岡荘八さんの歴史小説だと全26巻におよぶ超大作になるくらいですが、だからこそ前回のように「城」に注目したり、また今回のように「合戦」のみに集中して論じるということはあまりされていないと思います。
ちょうど大河ドラマ「どうする家康」でも信長が鳴海城を孤立させるために(また家康が兵糧を入れた大高城との補給路も断つために)周辺に多数の砦を築くという作戦を採りましたが、じつは同じように城砦群を築いて攻撃目標の城を孤立させる試みを家康自身が高天神城を攻める際にやっています。
こういう相似形はひとつの例ですが、家康という人は太原雪斎や今川義元にはじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。
余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?
掛川市のサイトにも
1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/10224.html
とあったので問い合わせてみたところ、過去にも調査したのだけどわからないという答えでした。どうやら『戦国史城 高天神の跡を尋ねて』(昭和63年発行)という書籍に「遠州を制せんとせば、まず高天神を制すべし。高天神を制せずして、遠州を制すること能わず。」と記載されているので、それが広まったのではないかとのことでした。
(お忙しい中ご回答いただきありがとうございました)
戦国時代ではなく昭和の本の言葉が流布しているのだとしたら驚きですが、おそらくこの本もなにかの資料を参考にしているはずなので、もし出典をご存じの方がいたら教えてください。
ともあれ「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉の通り、家康は歴史(=他者の経験)に学べる、優秀な人だったんだなとあらためて思いました。
ほかにもいろいろ話しているのですが、最後に家康の全合戦をまとめてチェックしてみました。
前日夜に「そういえば、家康って生涯戦績は何勝何敗だったんだろう」と思いついてネットで調べてみました。「51戦31勝13敗7分」という記事もあったものの三河一向一揆がひとまとめになっていたり、そのまま紹介しづらいなと思い、Amazonで「カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99」 (かみゆ歴史編集部、イースト新書Q)を購入しました。
この巻末に「徳川家康 合戦リスト」が掲載されています。
カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99 (イースト新書Q)
ちなみにこの表で計算するなら「51戦33勝11敗7分」になりました。
ただ敗北にカウントされている「桶狭間の戦い」はあくまでも織田vs今川の合戦であり、家康(当時は松平元康)はそのイチ武将にすぎなかったわけで、しかも大高城の兵糧入れにはいちおう成功していることを踏まえると敗北に数えるのはかわいそうな気もします。
また上田合戦などもそうですね。たしかに徳川軍は負けてるけど、家康自身は参加していません。これは信長にとっての手取川の戦いもそうです。チーム徳川、チーム織田が負けた以上、監督として勝敗の責任を負うのはわかるけど、ちょっともやもやします。
一方で秀吉軍に従軍していた小田原征伐あたりは軒並み「勝利」としてカウントされているのもどうなのかなと。
こうやって見てみると、初陣の寺部城攻めにはじまり、それなりの数の合戦に参加しているものの、家康自身が主体的に起こした合戦が少ないことに気づきます。
姉川の戦いのように信長の援軍として参加した合戦、武田信玄に攻め込まれての防衛戦など、巻き込まれた合戦の数があまりに多い。三英傑でくくられる信長や秀吉と比べても圧倒的に武力制圧による領土拡張が少ないですよね。
関ヶ原の戦いや大坂の陣が有名すぎて、家康が意外と合戦してないということは考えもしなかったのですが、この時代の人の中でも「外交カードとしての合戦」の優先順位がかなり低かったのかもしれません。
べつにだから平和主義者だったとは思わないのですが、信長や秀吉とはちがう価値観で生きてそうだという印象を持ちました。
今回使ったスライドを共有しておきます。
連載コラムをまだ読んでない方は、ぜひこの機会に第1回の「桶狭間の戦い」から読んでみてください。一度読んだ方もアーカイブの視聴にあわせて読み返してみてくださいね。