三方ヶ原の戦いは、家康にとっても非常に残念で危険な戦いとなりました。命の危険を感じずにはいられないエピソードが残っているこの戦いは、武田信玄との最初で最後の直接対決です。家康がコテンパンにやられたこの戦いは、なぜ起こったのか、そしてどのような意味を持っていたのかを探ってみましょう。
三方ヶ原で家康、惨敗。だけど死ななかった
甲斐の虎・武田信玄が、家康の所領である遠江・三河を攻めてきました。1572年(元亀3年)10月のことです。このとき家康は31歳でした。
武田信玄本隊は本拠地の躑躅が崎館(つつじがさきやかた)から大軍を率いて出陣し、駿河から遠江に侵攻しました。西に進んで天竜川沿いを北上して二俣城を包囲し、別動隊と合流して11月晦日に開城させました。
家康は浜松城を居城としており、三河と遠江を平定していました。三河へ向かう武田軍を迎え撃つために兵を出していたので、浜松に残った兵は8,000人程度だったとされます。一方で信玄は2万ともいわれる軍勢だったため、家康は浜松城に籠城することに決めました。二俣城から南下して浜松城に来襲すると思っていましたが、信玄は浜松城にはいかずに西へと向かっていったのです。「信長公記」によれば堀江城を目指していたようで、つまり浜松城は素通りされたわけです。
この動きを受けて家康は、背後から信玄を狙うために浜松城から出撃して追いかけました。武田軍が三方ヶ原台地から祝田(ほうだ)坂を下り始めたところを攻撃しようと考えていましたが、信玄は下ると見せかけて全軍を三方ヶ原に展開させて徳川軍を待ち構えていたのです。
武田軍は石つぶてを投げて徳川軍を挑発し、戦闘に引きずり込みました。午後4時ごろ開戦。徳川軍は鶴翼の陣、武田軍は魚鱗の陣で布陣したと言われています。兵力が劣っていた徳川軍は武田軍にはかなわず総崩れとなりました。
家康自身も何度も討死しそうになりながら敗走し、夜陰に乗じてようやく浜松城に逃げ帰りました。徳川軍は1,000人余りの死者を出したと言われ、夏目吉信、鳥居忠広、中根正照、本多忠真などの家臣を失いました。武田軍の圧勝、徳川軍はまさに惨敗。これが三方ヶ原の戦いです。
信玄が遠江を侵攻したワケは上洛ではない
家康の話とは少しずれますが、なぜ信玄は遠江に侵攻したのか? について探ってみましょう。
時代は少しさかのぼって1560年(永禄3年)です。駿河、遠江を領国としていた今川義元が桶狭間の戦いで敗れて討死します。桶狭間の戦いがあったからといってすぐに今川家が滅亡したわけではなく、義元の跡を継いでいた今川氏真が支配をつづけていました。ここで武田信玄は家康と密約を結び、大井川を境として東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領にしようと画策し、攻め取ることにしたのです。
1568年(永禄11年)12月に信玄は駿河に侵攻、家康もすぐさま遠江に侵攻し、約束通り大井川を境として奪い取ることに成功しました。これまでは武田と徳川は協力関係にありましたが、武田の家臣・秋山虎繁が大井川を超えて遠江を侵したため関係が険悪になりました。この後の1570年(元亀元年)に家康は越後の上杉謙信と同盟を結んで武田との対立をあらわにします。そして、信玄の遠江侵攻へとつながっていくのです。
しかしそれほど簡単な話ではなく、もっと複雑な事情があります。つまり、武田を取り巻く状況の変化です。信玄の宿敵である上杉謙信と北条氏政が1569年(永禄12年)に越相同盟を、織田信長と上杉謙信が1572年(元亀3年)に濃越同盟を、そして織田信長と徳川家康が同盟関係になりました。このように刻一刻と状況が変化していくなかで、上杉謙信と同盟を結んだ徳川に白羽の矢が立ったと考えられます。
信玄が浜松城を無視したのはなぜか
信玄が遠江に侵攻したのちの動きは前述したとおりですが、なぜ浜松城を無視したのでしょうか。従来の説は上洛が目的だったため西へと軍をすすめたというものですが、最近の研究では上洛が目的とは言えないというのが主流になってきています。
ではなぜ浜松城を無視したのか。ここで筆者が考えたのは、兵を西へ向けたのは三河方面の城をいくつか奪うことで、家康を降伏させることが狙いだったのではないだろうか。そのため、籠城している浜松城で戦って消耗するのを避けようとしたのではないかという推測です。
先にも述べた通り「信長公記」によれば信玄は浜松城の西、浜名湖畔の堀江城を狙っていたようです。また、三方ヶ原の戦いの後、年を越した1573年(元亀4年)1月から2月にかけて信玄は三河の野田城を攻城しました。このあと信玄の病状悪化のために帰国の途に就きますが、計画としては野田城→吉田城→岡崎城と進んで家康の本拠地を侵攻し、そのあとで浜松城を攻め取るか、家康を服従させるつもりだったのかもしれません。いずれにしても武田信玄のほうが戦巧者だったのは明らかです。
一方の家康はなぜ兵力差があるのに打って出たのでしょうか? 信玄を見過ごせば求心力を失ってしまうとか、信長に示しがつかないとかいろいろと言われていますが、最新の説では信玄が堀江城を攻め落とす動きを鮮明にしたためと考えられています。つまり、浜名湖の水運をとられてしまうのを阻止するために打って出たのだと考えられるのです。
有名なエピソードの真実
三方ヶ原の戦いにはいくつかのエピソードがあります。有名なエピソードについての真実を探ってみたいと思います。
ひとつめが浜松城へ逃げかえる途中の「小豆餅」と「銭取」というエピソードです。敗走中の家康が途中にあった茶屋に立ち寄り「小豆餅」を食べていたのですが、その最中に武田軍の追手が迫ってきました。家康は代金を払わずに慌てて逃げ出しました。それを茶屋の老婆が追いかけて代金をとりました。これが由来となって「小豆餅」と「銭取」という地名になったというものです。
面白いエピソードではありますが、夕方に開戦して夜陰に乗じて浜松城に逃げ帰ったとされる夜の戦場で、茶屋がやっているのか、立ち寄って餅を食べる余裕があったのかなど疑問がありますし、慌てて逃げ出した家康に追いつく老婆の脚力は家康を上回っていたとなり、これも疑問ですね。「小豆餅」は三方ヶ原の戦いの死者を弔うために小豆餅をそなえたというのが由来で、「銭取」はこの辺りでは通行人から通行料をとっていたのが由来とも言われています。さぁ、あなたはどちらを信じますか?
もう一つのエピソードは家康が書かせたという「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」です。三方ヶ原で惨敗した家康が後の戒めとして描かせたと言われるしかみ像ですが、「戒めに描かせた」説は昭和になって広まったもので、三方ヶ原の戦いとは全く関係ない画のようです。徳川美術館の学芸員だった原史彦さんの研究によると紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の所持品で「東照宮尊影」と記されていたものの戦いの記述はなく、昭和になって徳川美術館が開館したころに三方ヶ原と結び付けられて紹介され、広まったということです。しかみ像の立体像や石像などがありますが、どうするのでしょうね。
信玄の死、そして勝頼との争いへ
最後は、三方ヶ原の戦いのその後です。少し上述しましたが、1572年(元亀3年)12月に三方ヶ原の戦いがあり、武田軍は遠江領内で越年します。1573年正月には東三河に侵攻。2月には三河の野田城の戦いで攻略に成功します。しかし、武田信玄の病状が悪化したために甲斐へ撤退していきました。家康にとっては「助かった……」というのが本音ではないでしょうか。
信玄は1573年(元亀4年/天正元年)4月12日、帰路の途中、信濃伊那郡の駒場で病死しました。このあと武田家は勝頼が家督を継ぎ、信玄以上に三河・遠江への侵攻を強めて1574年(天正2年)には岩村城や明知城などを相次いで落としていきます。そして、高天神城の戦い、長篠設楽原の戦いへと向かっていくのです。
まとめ
甲斐の虎・武田信玄との直接対決。家康はどんな思いで戦いに挑んだのでしょうか。三方ヶ原の戦いは家康にとっては厳しい現実を突きつけられた戦いでもありました。武田信玄を取り巻く状況が刻々と変わる中での判断力が求められたときとも言えます。しかみ像はこの戦いとは関係ないものとわかっていても、やはりそのときに描かせたように見えてくるのはなぜでしょうか。このあと、高天神城の戦い、長篠設楽原の戦いで武田勝頼と相まみえていきますが、どのような結末が待っているのか次回以降探っていきましょう。
参考文献
- 日本戦史 三方原役(明治35年6月15日、参謀本部)
- 三方原・長篠の役/日本の戦史2(旧参謀本部編、昭和40年7月1日、徳間書店)
- 歴史群像 三方ヶ原の戦い(小和田哲男、1989年1月1日、学習研究社)
- 「週刊 新説 戦乱の日本史 三方ヶ原の戦い」(2008年4月15日、小学館)
- 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA)
- 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
- 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
- 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
- 「武田三代 信虎・信玄・勝頼の真実に迫る」 (平山優、2021年9月28日、PHP研究所)
- 「新説 家康と三方原合戦」 (平山優、2022年11月10日、NHK出版)
- 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
- 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
- 週刊ビジュアル 戦国王 (ハーパーコリンズ・ジャパン)
- 週刊 新説戦乱の日本史 三方ヶ原の戦い (小学館)
- 歴史群像シリーズ⑪ 徳川家康【四海統一への大武略】 (1989年4月1日、学習研究社)