姉川の戦いと言えば、織田信長と朝倉義景・浅井長政の間で起こった戦いとして有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。
織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜-
まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。
1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果たします。このとき29歳となった家康も上洛しました。一方で、それまでは畿内を支配していた三好は阿波に逃れました。
この上洛を機に、信長は各地の大名に上洛を命じますが一向に従おうとしない大名がいます。それが朝倉義景です。これに対し信長は4月に入り3万の兵を率いて京を出立、越前へ出陣しました。この出陣には家康も加わっていました。
4月25日、敦賀方面へ軍勢を出して金ケ崎城に侵攻して攻め落とし、朝倉氏の本拠地である一乗谷に迫ろうとするとき、信長の義弟の浅井長政が裏切ったとの知らせを受け、急遽全軍を撤退させました。いわゆる「金ヶ崎の退き口」です。家康は信長とともに越前から琵琶湖の西を通って京に戻り、信長は美濃へ、家康は岡崎に帰還しました。
岐阜に戻った信長は、浅井長政を討つために北近江に出陣し、6月21日に小谷城を攻撃します。家康も5,000の兵を率いて参陣しました。しかし堅固な小谷城を攻め落とすのは無理と判断して一日で退却、後方の横山城を包囲しました。信長と家康は龍ヶ鼻(たつがはな)に陣を構えます。
これに対し、浅井・朝倉軍は姉川の北に、信長・家康軍も呼応して姉川の南に布陣し、ここに姉川を挟んで両者が激突する「姉川の戦い」が始まったのです。
ちなみに、このころ家康は引馬城を拡張する形で浜松城を築城し、岡崎城から居城を移しています。武田の遠江侵攻に備えるためと考えられていますが、武田と同盟していた浅井・朝倉と対立し、それは武田との対立を意味しているのですが、それを予測して浜松へ移ったのかもしれません。
家康の活躍で勝利 -姉川の戦い-
浅井軍5,000、朝倉軍8,000が姉川の北岸、野村・三田村に布陣します。一方の信長軍は「陣杭の柳(じんごのやなぎ)」に、家康は近くの岡山に布陣しました。姉川を挟んで信長の正面には浅井、家康の正面には朝倉が対峙し、家康軍には丹羽長秀や池田恒興が加勢したと言われます。いよいよ姉川の戦いが始まりました。
戦闘は、4月28日未明に家康軍と朝倉軍との激突から始まりました。はじめは朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政が側面から朝倉軍を突き、形勢が逆転したと言われます。一方で、信長と浅井氏との間でも戦闘が始まりました。こちらもはじめは浅井氏が優勢でしたが、横山城を取り囲んでいた西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家ト全、安藤範俊)が側面から攻撃をはじめ、浅井勢がみるみるうちに不利になっていったと言われます。この戦闘により劣勢となった浅井・朝倉軍は北へ退いていきました。午前5時に始まり、午後2時に終結。死者は浅井・朝倉軍1700余人、信長・家康軍800余人と伝わります。
信長は逃げる浅井・朝倉を追って小谷城下に放火しましたが、城攻めは避けました。戦いの後、浅井軍が退いたために接収できた横山城の守りとして木下秀吉をいれ、信長は7月6日に京へ戻りました。これが「姉川の戦い」です。
「姉川の戦い」は徳川家の呼び名
さて、「姉川の戦い」として有名なこの合戦ですが、浅井家では「野村合戦」、朝倉家では「三田村合戦」と呼んでいたと言われます。浅井氏は野村に陣を置き、朝倉氏は三田村に陣を置いていたため、それぞれがこれらの名前で呼ぶのは当然のことと言えます。織田家ではどのように呼んでいたのかは残念ながら明確になっていません。当時の記録が残されていないためです。
では、この1570年(元亀元年)6月28日の戦いを「姉川の戦い」と呼ぶのはなぜでしょうか。実はこの呼び名は徳川家で呼ばれている名前なのです。徳川家康は同年の書状でこの戦いのことを「江州合戦」と記していますが、その後の「賤ケ岳の戦い」や「関ヶ原の戦い」での佐和山城攻撃など、近江を中心とする合戦が多くなっていくと「江州合戦」ではどの戦いを指すのかがわかりにくくなっていったために、1570年(元亀元年)6月28日の戦いを「姉川の戦い」と呼ぶようになったようです。
徳川幕府が編纂した書物では「姉川合戦」や「姉川の役」と呼ばれていますが、徳川家で呼び出したのが最初で、時代がどんどんと進んでいくと次第に定着し「野村合戦」や「三田村合戦」などの浅井氏・朝倉氏の呼び名は呼ばれなくなっていったと考えられます。
「姉川の戦い」で家康軍の活躍によって勝利がもたらされたとの描写が、徳川家の記録類には多いがその他の史料には少ないというのも、そういう理由なのでしょう。
決着とその後
姉川の戦いで信長・家康連合軍は勝利し、朝倉軍は越前に撤退、浅井軍も小谷城へと退きました。とは言っても、浅井・朝倉両氏に決定打となるほどの打撃を与えられたかというと少し疑問があります。なぜなら、この戦いの後も浅井・朝倉両氏は比叡山に立て籠もって戦闘を継続するなどの行動に出ており、ついには将軍の勅命によって和睦することになったからです。最後には浅井も朝倉も信長に敗れて滅亡しますが、それは3年後の1573年(天正元年)のことです。つまり、姉川の戦いで信長・家康連合軍は一時的な勝利を収めることはできましたが、決定打とはならなかったというのがこの戦いの本当のところだと考えられます。
姉川の戦いの後、阿波に逃れていた三好三人衆が畿内に侵攻してきます。また本願寺や比叡山延暦寺も信長に敵対し、伊勢畠山氏や松永久秀、武田信玄らも加わって信長包囲網が敷かれていきます。家康はというと、信長に敵対した武田信玄が上洛目指して遠江へ侵攻し、三方ヶ原の戦いへと進んでいくのです。
次回は「三方ヶ原の戦い」です。武田信玄とはどのような戦いになったのか、また、有名なしかみ像の新たな事実について触れていきます。
参考文献
- 日本戦史 姉川役(明治34年5月7日、参謀本部)
- 桶狭間・姉川の役/日本の戦史1(旧参謀本部編、昭和40年6月1日、徳間書店)
- 「浅井長政と姉川合戦-その繁栄と滅亡への軌跡-」(太田浩司、2011年10月31日、サンライズ出版)
- 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA)
- 愛知県史 通史編3 中世2・織豊(平成30年3月30日、愛知県)
- 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
- 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
- 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
- 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
- 週刊 新説戦乱の日本史 姉川の戦い (小学館)
- 歴史群像シリーズ⑪ 徳川家康【四海統一への大武略】 (1989年4月1日、学習研究社)