ひさしぶりの攻城団テレビの番組公開です。
今回は徳川家康から徳川慶喜まで歴代征夷大将軍15人の正室(御台所)という視点から江戸時代を見てみました。
結論として3代・家光以降、大半が京都の皇族(宮家)や摂関家から嫁入りしていましたが、なかには皇女もいたり、その時々の幕府と朝廷のパワーバランスが垣間見えます。皇族も途中までは天皇との血筋が遠い伏見宮家からでしたが、10代・家治の正室には当時の天皇と非常に近しい血筋の閑院宮家から来ているなど、時代によって違いが見られます。
あるいは急遽将軍職に就くことになった者は藩主時代に結婚していたりするものの、やはり将軍家の血筋ということで高貴な血統の女性を正室に迎えていることがわかりました。
じっさいには2代・秀忠の正室だったお江以外は将軍を産んでおらず(男子を産んだ正室もいたのですがいずれも早くに亡くなっている)、どちらかというと「権威付け、箔付け」や、朝廷と幕府の関係強化が正室選びの基本だったようです。
ただこのような中で例外と言える、京都以外から迎えた正室が2名いて、彼女たちはいずれも薩摩藩出身でした。
このことにより薩摩藩は幕末に主導的立場を獲得していくという点もおもしろいです。ついつい男系で歴史を見てしまいますが、女性たちが歴史に与えた影響の大きさをあらためて実感することになりました。
さらにこの島津家の女性たちがいずれも近衛家の養女になっている点を不思議に思って調べてみたら、もともと島津家(当時は惟宗家)は近衛家の家司(けいし=執事のような存在)で、平安時代からの関係だったことがわかりました。おまけに現在の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代に源頼朝から島津荘を任され、その後に起きた比企能員の変に連座して没収されるという経緯を知ることができました。
江戸時代の御台所の話をしていたはずなのに鎌倉時代を舞台にした大河ドラマにつながるというのは歴史のおもしろいところですね。
もうひとつ「世襲親王家(せしゅうしんのうけ)」という言葉も今回ぼくがはじめて知った用語で、ようは徳川家康が設けた御三家のように天皇に子どもがいなかった場合に備えてのバックアップなのですが、天皇の子息たちが臣籍降下といって源氏や平氏となり京から離れていく一方で、こういう方々(皇族)がいたというのは驚きでした。
攻城団テレビをやっていて、毎回のように新しい言葉をおぼえ、それでいて歴史の連続性や相似性を実感できるのでとても楽しいです。
今回はテーマが広がりすぎるため取り上げなかった将軍家の側室、生母とかは別の機会にやりたいと思います。
最後に榎本先生が収録前に用意してくださった資料を共有します。
築山殿
【生年不明〜没年1579年、結婚1557年】
初代将軍徳川家康の最初の正室は「築山殿(つきやまどの)」。今川義元の重臣の娘で、母親は義元の妹とされる。つまり、家康が今川氏の家臣団の一員であった頃に、今川の結束を高めるための結婚であったということ。
ところが義元は桶狭間で討死し、家康は今川から独立して戦国大名化を進めるので、その中で築山殿の立場は微妙なものになったであろうことが想像できる。結婚は政治手段の一つだが、敵味方は切り替わりやすい状況に置かれている、戦国大名、戦国武将にありがちなことではある。
家康と築山殿の間に生まれた信康と、その妻として迎えた織田信長の娘の徳姫の関係が悪化し、そこから「築山殿と信康が宿敵の武田信玄と内通している」という訴えが信長に出される。家康は信長のプレッシャーに抗しきれず、築山殿と信康はどちらも殺されてしまった。築山殿は浜松城に呼び出される途中で殺されたという。朝日姫
【生年1543年〜没年1590年、結婚1586年】
その後、家康は「朝日姫(あさひひめ)」を新たな正室に迎えている。これは豊臣秀吉の妹で、別の男性と結婚していたにもかかわらず、家康を自分の傘下に引き込みたい秀吉によって家康の正室として送り込まれたとされる。しかし家康は彼女を正室にしながらも上洛して秀吉の支配下に入ろうとはしなかったので、最終的に秀吉の母まで家康の元へ赴くことになった。
朝日姫自身は駿河に住んで「駿河御前」と呼ばれたりもしたが、母が病気ということで一度京都に戻った後は家康のところへはゆかず、そのまま数年後に亡くなっている。夫婦としての関係性はほぼなかったと考えていいだろう。お江
【生年1573年〜没年1626年、結婚1595年】
二代将軍秀忠の正室は「お江(ごう)」とか「お江与(えよ)」とか呼ばれる。院号は「崇源院(すうげんいん)」。大河ドラマでも主役になった、浅井三姉妹の三女にあたる。浅井氏が滅び、またお市の方と再婚した柴田勝家が滅んだ後は秀吉の庇護下に入り、羽柴秀勝と結婚するが死別。その前に別の男性と結婚していたという話もある。その後、秀忠と再婚した。実質的に将軍正室=御台所は彼女からと言っていいだろう。
秀忠とお江の結婚の背景は、お江を庇護する秀吉が、徳川家との関係を強化する意図で計らったものと考えていいだろう。
嫉妬深い女性というイメージが強いのは、秀忠が表立った側室を基本的に持たず、寵愛したお静の方も秀忠との間に生まれた保科正之(ほしなまさゆき)を秀忠の息子として育てられなかったあたりから来ているのだろうか。鷹司孝子
【生年1602年〜没年1674年、結婚1623年】
三代将軍・徳川家光の正室は「鷹司孝子(たかつかさたかこ)」、院号は「本理院(ほんりいん)」。名前からも分かるとおり関白・左大臣の娘。
幕府と朝廷との関係を強化する必要から迎えられたと思われる。将軍の妻が摂関家から迎えられたのは初めてで、それだけ武家の力が強まっていたとも、公家の力が弱まっていたとも考えられる。
家光との関係はかなり悪かったようで「江戸へ移ってから結婚するまでに二年」「吹上(ふきあげ)に中之丸御殿が作られ、そこへ住むことに(中之丸様という呼び名はそこから)」「後継の家綱との間に養子縁組をしなかったので、彼女が亡くなった際に家綱は喪に服さなかった」などの話が残る。背景には「孝子が嫉妬深かったから」という話もあるが、若き日に長く男色趣味が強かったという家光との確執の方が原因ではないか。浅宮顕子
【生年1640年〜没年1676年、結婚1657年】
四代将軍家綱の正室は「浅宮顕子(あさのみやあきこ)」。院号は「高厳院(こうげんいん)」。伏見宮10代の貞清(さだきよ)親王王女。天皇家とは、3代貞成親王の時に分かれている。
大奥の風紀が大いに乱れていたため、それを押さえるために権威ある京都の女性を迎えたのではないかという話がある。
乳がんで亡くなるのだが、その際に医者が直接診断することが許されず、糸を腕に巻いて脈を取るのがせいぜいだったという話がある。もちろん助からず、そのまま亡くなった。鷹司信子
【生年1651年〜没年1709年、結婚1664年】
五代将軍綱吉の正室は「鷹司信子(たかつかさのぶこ)」。院号は「浄光院(じょうこういん)」。結婚したのは綱吉が館林藩主だった頃。綱吉との関係はあまり良好ではなく、夫の寵愛は江戸庶民の出身である側室のお伝の方の方へ向いていたといい、信子は京都から公家の娘を呼び寄せて側室にしたという話がある。
あくまで伝説・怪談の類ではあるけれど「信子が綱吉を殺害し、自分も自殺した」などという話まである。当時の人は信じたようだが、実際には信子は麻疹で亡くなったらしい。近衛熙子
【生年1666年〜没年1741年、結婚1679年】
六代将軍家宣の正室は「近衛熙子(このえひろこ)」、院号は「天英院(てんえいいん)」。関白・近衛基煕(このえもとひろ)の娘。家宣が甲府藩主だった頃に結婚し、二人の子をもうけているが、共に早くに亡くなっている。
将軍家に嫁入りしたのは、「家光の正室・鷹司孝子が伏見宮出身」という縁からだったという話がある。
この時代の大奥は、正室の煕子=天英院派と、側室の月光院派に分かれて対立したとされる。有名な絵島生島事件の主役である絵島は月光院派の重要人物であり、その絵島と役者の生島の恋愛が表沙汰になった背景に、煕子の思惑もあったのかもしれない。八十宮吉子
【生年1714年〜没年1758年、婚約1716年】
七代将軍家継は幼くして亡くなったので、正室はいない。ただ、婚約した相手がいて、それは時の霊元(れいげん)天皇皇女の「八十宮吉子(やそのみやよしこ)」、院号は「浄琳院宮(じょうりんいんのみや)」。家継が8歳で亡くなった時、八十宮は3歳であったという。一度も会ったことはないが、扱いとしては将軍正室になるため、再婚することなくのちの生涯を過ごした。
婚約の背景には、家継の権力を強化しようとした側近・間部詮勝(まなべあきかつ)による運動があったという話がある。真宮理子
【生年1691年〜没年1710年、結婚1706年】
八代将軍吉宗の正室は「真宮理子(さなのみやまさこ)」。院号は「寛徳院(かんとくいん)」。伏見宮13代貞致(さだゆき)親王の王女。結婚したのは紀州藩主時代。
吉宗の父・光貞(みつさだ)には、貞清親王の娘にあたる安宮照子(やすのみやてるこ)が嫁いでおり、理子は照子の姪にあたる。その関係で口利きがされて嫁いだものと思われる。
吉宗の子を妊娠するが流産してしまい、しかもその影響で本人も亡くなってしまう(これも紀州藩主時代)。理子以前、吉宗は側室を迎えていたが、理子が死んだ後は正室も側室も迎えておらず、そこに吉宗なりの愛情を感じる向きもある。比宮増子
【生年1711年〜没年1733年、結婚1731年】
九代将軍家重の正室は「比宮増子」(なみのみやますこ)。院号は「証明院」。伏見宮14代邦永(くになが)親王の娘。真宮理子の姪にあたる。
両者の婚姻を進めたのは、吉宗時代後期に権勢を振るった松平乗邑(のりさと)であったという話がある。
結婚の翌年には家重と一緒に船で隅田川下りを楽しんだりもし、さらに翌年に妊娠するも、子供はなくなり、本人も死んでしまう。だから将軍の正室だった時代はないということになる。家重も継室を迎えることはなかった。五十宮倫子
【生年1738年〜没年1771年、結婚1754年】
十代家治の正室は「五十宮倫子(いそのみやともこ)」。院号は「心観院(しんかんいん)」。閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王の王女。直仁親王は閑院宮初代で、東山天皇の子。結婚当時の天皇は桃園(ももぞの)天皇で、倫子からすると従兄弟(桜町天皇)の子に当たる。
将軍の夫人が江戸城から外出することを許されたのはこの人から(家治の許しがあったから)だという。この話からも分かるとおり夫婦の関係は良好だった(祖父・吉宗の計らいによって結婚の7年前から倫子は江戸へ移って交流を持っていたから関係がよかったという話もある)が、倫子は早くに亡くなってしまう。子供も産まれているが両方娘で、またどちらも早くになくなっている(1歳と13歳)。茂姫
【生年1773年〜没年1844年、結婚1789年】
十一代将軍家斉の正室は「茂姫(しげひめ)」あるいは「寔子(ただこ)」。最初は「篤姫(あつひめ)」だったらしい。院号は「広大院(こうだいいん)」。薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)の娘で、家斉がまだ一橋家の当主だった頃に家斉と結婚している。9歳の時点で既に西の丸に入り、家斉と一緒に暮らしていたが、結婚したのは16歳の時。しかし家斉が将軍になるにあたって「外様大名の娘では慣習に反する」と問題視されたが、右大臣・近衛経熙(このえつねてる)の養女になることでこの問題をクリアしている。
彼女の結婚により、島津重豪が江戸時代初めての「外戚になった外様大名」になり、大きな発言力を獲得。「高輪下馬(たかなわげば)将軍」とも呼ばれた。楽宮喬子
【生年1795年〜没年1840年、結婚1810年】
十二代将軍家慶の正室は「楽宮喬子(さざのみやたかこ)」。院号は「浄観院(じょうかんいん)」。有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の王女。織仁親王は有栖川宮6代で、東山天皇の甥にあたる。なお、結婚当時の光格天皇は閑院宮系統で、東山天皇の曾孫にあたる。
五回懐妊するが、男児を孕った最初を始め、全て流産あるいは夭折している。鷹司任子
【生年1823年〜没年1848年、結婚1842年】
十三代将軍家定の最初の正室は「鷹司任子(たかつかさただこ)」。院号は「天親院(てんしんいん)」。鷹司政熙(まさひろ)の娘で、叔父の鷹司政通(まさみち)の養女になって将軍家に嫁入りする。養子に入ったのは、政通が当時関白だったから。
25歳で疱瘡にかかってなくなる。一条秀子
【生年1825年〜没年1850年、結婚1849年】
任子が亡くなった後、二人目の正室として「一条秀子(いちじょうひでこ)」。院号は「澄心院(ちょうしんいん)」。一条忠良(いちじょうただよし)の娘。
任子の死後、大急ぎで結婚話がまとまったので「実は一条家の娘ではないのでは」などという噂まで生まれたらしい。また、当人は結婚後すぐに亡くなってしまう。篤姫
【生年1836年〜没年1883年、結婚1856年】
三人目が、いわゆる「篤姫(あつひめ)」。本名としては「近衛敬子(このえすみこ)」。院号は「天璋院(てんしょういん)」。島津忠剛(しまづただたか)の娘で、島津斉彬(しまづなりあきら)の養女、近衛忠熙(このえただひろ)の養女。
斉彬が当時の安政将軍継嗣問題に介入していくにあたって、家定に働きかけるべく、篤姫を大奥へ送り込んだとされる。しかし、家定は斉彬が推している慶喜は嫌いだし、そもそも篤姫は家定とは一対一になれなかったとのことでうまくいかないまま、家定が死んでしまった。和宮親子
【生年1846年〜没年1877年、結婚1862年】
十四代将軍・家茂の正室が「和宮親子(かずのみやちかこ)」。院号は「静寛院宮(せいかんいんのみや)」。仁孝(にんこう)天皇の皇女 、そして時の孝明(こうめい)天皇の妹。
当時政治的に追い詰められ、朝廷と天皇の権威を必要としていた幕府が要望する公武合体政策の目玉として、皇女が将軍に嫁入りすることになった。当初は御所風の文化を持ち込む和宮たちと、武家風の文化を持っている従来の大奥との間にかなり激しい対立があったとされる。やがて篤姫と和宮は和解し、新政府軍が江戸へ向かった際には二人ともが交渉に関与し、状況のソフトランディングに一役買ったと言う。
一方、家茂と和宮の関係は驚くほど良好で、家茂は側室を置かなかった。家茂が西へ出征する際には西陣織を土産に臨んだり、武運を祈ってお百度参りをしたりしたという。一条美賀子
【生年1835年〜没年1894年、結婚1855年】
十五代将軍・慶喜の正室が「一条美賀子(いちじょうみかこ)」。院号は「貞粛院」。なお、「美賀子」は明治になってからの呼び名であり、最初は「延(のぶ)」、養子に入って「美賀」、そこから「省子(しょうこ)」となった。今出川公久(いまでがわきんひさ)の娘で、一条忠香(いちじょうただか)の養女。実はもともと忠香の娘の千代が慶喜と婚約していたが、疱瘡(ほうそう)のせいで顔に痕が残ったので、美賀子が養女に入って慶喜と結婚した。
結婚したはいいが、慶喜は「徳信院(とくしんいん)」という二代前の一橋家当主の妻に夢中で、美賀子は嫉妬して、夫を突き飛ばしたり、自殺を図ることもあったとか。その後、慶喜が将軍後見職や将軍として江戸を留守にしている時期は一橋の屋敷にずっといて、明治になって慶喜の謹慎がとかれると静岡で一緒に暮らしたという。