尾張の小大名時代の織田信長にとって、美濃の斎藤氏は父の代からの宿敵であった。
斎藤道三の娘と政略結婚して同盟していた時期もあるが、道三が息子の義龍との対立の末に死んだせいで再び両者の関係は険悪化した。
そのため、1560年(永禄3年)に「桶狭間の戦い」で今川義元を打ち破り、尾張を統一した信長にとって最大の課題は、いかに斎藤氏との決着をつけるか、だったのである。
しかし、信長は一気に斎藤氏を倒そうとはしなかった。
織田と斎藤の決着がつくのは1567年(永禄10年)、斎藤氏の拠点である稲葉山城が攻め落とされた際のことである。
信長は7年の月日をかけて相手を追い詰め、ついにこの宿敵を倒すことに成功したわけだ。
これ以前にも信長にとって好機はあったように思われる。
たとえば1561年(永禄4年)には優れた手腕で信長と対立してきた斎藤義龍が病に倒れ、代わって息子の龍興が家督を継承している。
この龍興は祖父や父と違って凡庸な人物であったとされ、のちに家臣によって居城を一時的に占領されるという醜態も演じている。
実際、信長はこの代替わりの隙をついて美濃へ攻め込んでいるのだが、大きな成果を挙げられていない。
そんな中、信長が選んだのは美濃をじっくりと切り崩していく方法だった。
なぜかといえば、美濃の国人たちは道三・義龍の作り上げた体制のもとでしっかりと団結しており、信長自身にもまだ尾張国内に従兄弟で犬山城主の織田信清という強敵がいたからだ。
これらをどうにかしなければ、力で龍興を叩き潰すことはできない。
信長は信清を攻める一方で稲葉山城のある西美濃はいったん放置し、東美濃・中美濃の攻略にも取り掛かった。
斎藤側の国人たちをあるいは倒し、あるいは降伏させて、龍興を孤立させていったのである。
そしてついには「西美濃三人衆」といわれる有力な国人たちまで信長に恭順するにあたって、美濃一国はあっさりと信長の手に落ちたのだ。
団結している相手を力で攻めても損害は増えるばかり――これは現代の私たちにも通じる真理のひとつだ。
自分の弱点を潰しつつ相手の団結を切り崩し、弱ったところを狙えば、時間はかかっても大きな成果が得られるというものである。