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【戦国合戦こぼれ話】安祥城の戦い――戦後交渉こそが重要だった

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戦国時代の合戦は、必ずしも単純な勝敗がすべてではなかった。
ただ戦って勝つのではなく、何のために戦うのか、どう勝つのか――それが重要になる局面も少なからず存在した。

現代でも、我武者羅(がむしゃら)の猪武者は会社の歯車としては優秀かもしれないが、ある程度大きい集団のリーダーにはなれない。
そのことと一緒だ。1549年(天文18年)、三河は安祥城(安城城)をめぐる戦いはその代表格だ。

この時期、三河は駿河の今川義元と尾張の織田信秀の争いの舞台となっていた。
元々、この地に大きな力を持っていたのは松平氏だったが、絶頂期を築いた松平清康が家臣によって殺害されて後はすっかり衰退し、今川氏の支配下に入っていた。
つまり、織田vs松平(のバックにいる今川)という状況になっていて、たびたび両者が激突していたのだ。

そんな中、義元の軍師として、また外交僧としても名高い太原崇孚(雪斎)の率いる軍勢が安祥城を攻撃した。
ここは元々松平氏の城であったが、織田氏に奪われて三河攻略の拠点とされていた。
今川方が三河を安定支配するためにはどうしてもこの城を奪い返しておかなければならなかったのだが――指揮官である太原崇孚はそれ以上のことを考えていたようだ。

彼はこの城をただ攻め落とすだけでなく、わざわざ城主である織田信広を殺さず、生け捕りにした。
信広は信秀の長男なのだが、庶子なので家督は継げず、信秀の死後には弟の信長が家督を継承する。
とはいえ、人質としての価値は十分にある。

そこで、太原崇孚は人質交換を申し出た。
信広と交換されたのは、当時織田氏の人質になっていた松平竹千代、のちの徳川家康であった。
本来今川氏の人質になるはずだった彼は事情あって織田方に引き渡されていたのだが、それを改めて今川方に引き戻すことで、松平氏に対する支配力を強化しようと図ったのだろう。
この翌年に竹千代の父である松平弘忠が亡くなっていた、というのも背景としてあったに違いない。

太原崇孚の策は見事に当たり、今川氏は松平氏を完全に取り込んで勢力拡大を進めていった。
それが頓挫を余儀なくされ、松平(徳川)が独立を始めるのは、桶狭間の戦いで義元が死んでからのことになる。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年7月28日)
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