1582年(天正10年)、本能寺にて織田信長死す。
謀反を起こした明智光秀は近畿を制圧しようとし、地方に散っていた織田政権の諸軍団もそれぞれの動きを見せていた。
その中でも真っ先に中央へ戻ったのが中国で毛利氏を攻めていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であり、羽柴と明智の両軍は摂津と山城の境に近い山崎の地で激突した。
いわゆる「山崎の戦い」である。
――そしてこの戦いもまた、本コラムでいくつも紹介してきた「戦う前に終わっている」合戦の一つであった。
信長が死んだ時、秀吉は中国地方の備中高松城で毛利氏と対峙していた。
しかしその一報を知るや(光秀が毛利氏に向けてはなった使者を捉えたのだとされる)速やかに和議をまとめると、驚くべき速度で中央へ取って返した。
この時、秀吉率いる2万の軍勢はわずか7日間で近畿まで戻って見せている。
うち1日は播磨姫路城で休息しているのだが、その際に大量の兵糧と金銀が兵たちに分配されたという。
「仇討ち」という大義名分に気前のよさも手伝って、羽柴軍の意気は軒昂だったはずだ。
さらに秀吉は近畿にいた諸武将(その中には信長の三男・信孝もいた)を味方につけ、いよいよ万全の体制を作り上げていく。
この際、秀吉がある武将に対して「信長様は生きている」と伝えたことがわかっている。
これも大義名分を強化する一策だったと考えていいだろう。
一方、明智側の状況は良くなかった。
朝廷からの協力は取り付けたものの、本来は支配下にあるはずの近畿の与力大名たちは一向に光秀に協力してくれる動きがなかった。
むしろその一部は積極的に羽柴軍へ参加する始末である。
結果として山崎の地で両軍が対峙した際の戦力差は、一説によると羽柴軍4万に対し、明智軍1万程度とされている。
さらに秀吉は高地である天王山を先に押さえていた。
このような状況では、すでに趨勢は決まっていたといっていい。
明智軍は敗れ、光秀は敗走中に落ち武者狩りにあって倒れた。
主君の仇を討った秀吉は、以後自らの天下に向かって驀進することになるのだが、その端緒にはこのような速度と手回しがあったのである。
これは現代の私たちも学ぶべきことであろう。