前回に引き続き、「奥州の独眼龍」伊達政宗の話をしよう。
今度は、本コラムの第6回でも紹介した、豊臣秀吉による小田原攻めの際のエピソードである。
このとき政宗は百騎程度という少数を率い、しかも秀吉の要請よりはるかに遅れて参陣している。
そのため、小田原攻めの実戦において彼がなにか働きを示したわけではない。
それでも、この大規模な合戦の舞台裏で行われた政宗の行動は非常に大きな意味があったのである。
もともと伊達氏は中央権力である豊臣氏の束縛に対して不服従であり、自由な態度を示していた。
その上で、同じような立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んだ形になっていた(のちに徳川は豊臣へ臣従)ため、むしろ本来、政宗は北条側に味方するべきだったといえる。
実際、北条氏としては伊達氏による援軍を期待して天下の名城・小田原城にこもった節もあるようだ。
それでも、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に味方することを決断し、小田原へ向かった。
小田原を包囲する未曾有の大軍、また秀吉の機敏な動きを見て、抵抗しても無意味と判断したのだろう。
野心家として知られる政宗としては苦渋の決断だったはずだ。
出発に先立って母・義姫から毒殺されかかり、また関東を大回りして進んだこともあって、ようやく辿り着いたときには完全に「遅刻」の状況であった。
そのせいか政宗はしばらく幽閉され、使者の詰問に応えた上でようやく秀吉への謁見を許されている。
しかし、政宗はどこまでも大胆不敵だった。
幽閉されて、もしかしたらこのまま殺されるのではないかという時期に「ぜひ千利休殿に茶を習いたい」などと申し出た挙句、秀吉との対面に際しても白衣の死装束で挑んで見せたのである。
この度胸はむしろ秀吉に評価され、杖で首筋を叩かれ「首が危なかったな」と脅されつつも遅刻を許されることになった。
やがて小田原城は落ちて北条氏は滅亡、秀吉は東北へ進んで諸大名を降伏させ、天下統一を達成する。
そうして始まる豊臣政権の時代において、政宗は自らの領地を(一部取り上げられつつも)守ることに成功した。
その背景には、小田原攻めの裏に隠れた政宗の決断と度胸があったのだ――いつの時代も、思い切りの良さはしばしば人を救うものなのである。